9.メルキオール

 ベッドルームには長いソファとテレビが置いてあって、暗い部屋にちかちかとテレビの光が映る。天気予報が終わったあたりで、お花ちゃんはリモコンを使ってテレビを消して、枕に顔を半分埋めた。僕はその隣に椅子を持ってきていて、頭だけはベッドの上に乗せていた。
「どんな人を殺したの?」
 彼女は僕に聞いた。
「覚えてないよ」
「嘘ばかり」
 彼女はむっとしていた。
「本当だよ」
 いらないことは、あんまり止めておかないことにしている。殺した人間を覚えていたところで、何になるっていうんだろう。
 時折思い出されることもある。最近の政治家のこともそうだ。僕のことを始末しようとした同業者が来て、それから犯人探しをしている婦警さんに会ったせいだ。
「じゃあ、私のことも、忘れるの?」
「そうかもしれない」
 クローン人間のマリー。確かに今までにいなかったようなターゲットだから、もしかしたら少しは覚えているかもしれない。でも、ターゲットはターゲットであることに変わりはないから、きっとこれまでみたいにいつかは忘れる。すると、マリーは僕の頬をつねって、こっちを向かせた。
「覚えていて。私のこと。ターゲットとしてじゃなくて、私として」
「難しいな」
「そのくらいの報酬はもらってるんじゃないの?」
「充分には」
 彼女は大きく口を開けて笑った。僕の頰をまたつねる。僕はされるがままにしていた。

 もう眠りたかったのだけれど、お花ちゃんはずっと目を開けていた。薄暗い部屋の中で、彼女の視線がこっちに投げかけられているのがわかる。僕はわざらしく瞼を落とした。僕の指先を、お花ちゃんは摘んで眺めていた。
「初めて死を知ったのはいつ?」
 ふと、彼女は静かに質問した。僕は答えようか迷ったけれど、目を開けて、真っ黒の画面を見つめた。そこに、僕の記憶が映って、これだよって言えたら楽だろうなって思った。

 よく覚えているのは、僕がまだ幼い頃のことだった。思い出せるのは、セピア色の世界。小さな公園の、東屋の奥あたりにある小さなため池。蓮やら何やら大きな葉に覆われて、大きな石がごろごろとしている。僕は一人でそこに腰掛けて、毎日ただ時が経つのを待っていた。
「カメによく餌をやっていたんだ」
「いくつのとき?」
「さぁ……多分、八か九、十歳だったかもしれない」
「あなた、パパとママのところで育ったの?」
「いや。でも、その話すると面倒なんだけど」
「いいよ、また今度話して。それで? カメのこと。名前は?」
「メルキオール」
「ずいぶん格好いいのね」
 彼女はくすくすと笑った。その息遣いが腕に触れる。小さい頃、よく聞いた名前の一つだったから、とりあえず気に入った名前をつけたのだ。彼女はそれで、と暗がりでも見えるくらいきらきらした目で見つめてくる。僕は手のひらに乗せたメルキールの、不恰好な甲羅模様を思い出した。
「家の近くの小さな公園に、溜め池があった。飼うことはできなかった。だから、自分の小遣いで餌を買って、それをよくあげていた」
 ほんのわずかな硬貨を、手伝いをした代わりに毎月もらって、僕はペットショップに通った。子供のころなんて、金の使い方なんかそのくらいしか知らなかった。住んでいるところが住んでいるところだったから、いくらケージとかを買う分まで溜まっても、連れて帰ることはできなかった。僕もそこまでして持って帰ろうとは思っていなかった。ただ、外で遊んでいなさいと言われても、何をしたらいいのかわからなかったから、メルキオールに会いに行くのはちょうどいい口実だった。
「どんなことをして遊んでいたの?」
「いろいろ……」
「いろいろって?」
「たくさんだよ」
 言葉にするのが億劫になるくらいだ。はじめはずっと一人で行動しているのを眺めていた。浅いところの水に浸かっているところや、草の間でじっとしているところ、日向に当たっている姿とか、僕が置いた餌をゆっくり食べているところとか。でもだんだんなついてきて、僕が手のひらに乗せた餌を食べるようになったり、池の淵に置いて歩かせていたら、僕の方に向かってきたり。毎日毎日思いつきのように遊んでいた。
「でも、死んだ」
 そう、簡単に死んだ。
「どうして?」
「地面に叩きつけられていた」
「その言い方だと、あなたじゃないのね?」
「近所に住んでいた子どもだよ」
 名前は忘れたけれど、僕よりいくらか歳が大きくて、腰巾着の子どもを数人連れて公園の大将を気取っていた奴がいた。顔も思い出せないけれど、彼はよく僕に向かって何かと暴言を投げつけてきた。理由はいくらかあるのだろうけど、僕にとってはどうでもよかった。何度か叩かれたこともあったっけ。僕が傷を作って帰ってくると、養母たちはひどく心配をしたけれど、僕は泣きも怒りもしなかった。結局養母たちも、彼らの親に何も言うことができないって、僕も知っていたから。
「メルキオールのことを笑ったんだ」
「どうして?」
「首が伸びたからじゃないかな」
「そんなことで?」
「そんなことでさ」
「……それで、どうなったの?」
「メルキオールはお前のものなのかって聞いたんだよ」
 どうして、自分のものでもなんでもないのに、嗤ったり、馬鹿にしようだなんて思うのだろう。見ようとしなければ見えないものを、わざと引っ張り出して指差して嗤う彼らの行動が、僕は不思議でならなかったのだ。僕は彼らと関わろうとはしなかったけれど、その時彼らは僕たちのところにやってきたのだ。
「その子たちは怒った?」
「怒ったよ」
「それで?」
「彼はメルキオールを掴んで、地面に叩きつけた」
 僕の膝の上に乗っていたメルキオールは取り上げられて、公園のアスファルトに思い切り叩きつけられた。僕は思わず立ち上がったけれど、仰向けになったメルキールがもがいている様子に、呆然としてしまった。子供たちは手足を動かしているメルキオールを「気持ち悪い」と言って逃げた。いなくなってから、僕は体を起こしてあげた。不恰好だった甲羅には亀裂が入っていた。
「甲羅が割れて、死んだ」
 僕の手の上で、動かなくなった。僕は死体を池の直ぐ近くに埋めた。あれから僕はペットショップにも、ため池にも行かなくなった。
 代わりに、路地裏をぶらついたりして時間をつぶしていた。養母たちは僕が亀のことを話さなくなったから、どうかしたのか一度だけ聞いてきた。そのとき僕は、ずっと抱えていた疑問を彼女に向けた。
「命は平等なの?」
 僕はいつも言われていることを思い出して、尋ねた。
「そうですとも」
 養母は穏やかに答えていたけれど、僕が続けて聞いたことに、彼女は難しそうな顔をした。
「僕とメルキオールの命も?」
 本当はもう知っていた。命は平等じゃないってこと。
「そいつはどうなったの?」
「そいつって?」
「メルキオールを殺した子」
「あぁ……」
 暗闇の中で瞬きをして、僕はぼんやりと彼の葬式を思い出した。葬式なんて何回も見たけれど、そう、あの子のときは、彼の母親が僕のところにやってきたのだから、忘れずにいたのかもしれない。この街では「葬式」なんてとっくの昔の儀式だろうけれど、僕の街ではごく普通にあった。ここの「人」はピカピカの入れ物に入るけれど、僕たちの街では黒い棺の中に入れられて、さらに土の下で眠るのだ。
「死んじゃったの?」
「うん」
「いつ?」
「忘れちゃったな。それからちょっと後」
 僕のいた街の裏路地には、街を取り仕切ったつもりの奴らがよく居たものだ。子どもたちはそういうのに触れないように育てられるけれど、彼らは子どもの世界を仕切ったつもりになって、裏路地に入った。そして、面倒ごとに巻き込まれて、川で溺れて、死んだ。親たちは事故死にしていたけれど、故意が働いていたのを、僕は裏路地でたまたま耳にしていた。メルキオールという気に入らない存在を消すことに成功した彼らは、つい、街の支配者気取りをしたという。
「あなた、よく公園の亀と遊んでいた子?」
 彼の母親は墓地のすみっこに立っていた僕に声をかけてきた。「多分」と答えると、その人は、
「その亀を殺めたのは、うちの息子ね」
 と言った。「知ってるよ」と僕は頷いた。目の前で死んだのだから。
「ごめんなさいね。それでも、きてくれて」
「……べつに、僕は」
 言われたから来ただけだ。そう言おうとしたときに、会話が途切れた。遠く、黒ずくめの服の人々が、棺を見て泣いている。メルキオールが死んだ日も、僕は泣くことができなかった。対照的に、すすり泣きが風の音と混じってこっちに流れてきていた。
「ざまあみろとかって思わなかったの?」
 お花ちゃんの質問に、僕は現実に引き戻される。
「べつに」
 どうでもよかった。のうのうと生きていようが、ばらばらになって死んでいようが。どうやっても、メルキオールの甲羅が割れたことはどうしようもできないんだから。
「もう寝ようよ。僕、眠たい」
 欠伸が出て、お花ちゃんがくすっとした。
「こっちに来たら?」
 彼女はベッドの横を示した。僕はソファで眠るつもりだったから、答えように迷う。でも、本当に眠たくて、これ以上何かを言うのも嫌だったから、彼女の言う通りにした。
「変な感じ」
「何が」
 僕はぼんやりと尋ねた。
「いい年した二人が、何もなくただ眠ってるだけ」
「眠ることは大事だよ」
 お花ちゃんはそうね、と笑った。それから彼女は何も言わなくなった。重たい瞼を閉じると、静けさが一気に押し寄せてくる。一度目を開けてしまった。規則正しい呼吸がすぐ近くにあった。

 彼女の笑い声で目がさめた。窓の外は明るくなっていて、湿った髪をタオルで拭きながら、彼女は顔を覗き込んできた。うっすらと僕が目を開けると鼻の頭を指でつついてきた。
「おはよう」
 眠たくて目を細めると、彼女は余計に笑う。
「朝ごはん食べましょう、ねぼすけさん。シャワーは浴びる?」
「……いい」
 枕に顔を半分埋めていると、まったく、と彼女はごちた。
「世話の焼ける人なんだから」
「わかったよ……」
 僕は重たい頭を起こした。僕の着ていた服は? と彼女に視線をやると、洗濯に出されていたズボンとジャケットは綺麗に畳んでサイドテーブルにあった。どうやら乾いたらしい。彼女から借りていた服から、その服へと着替える。
「着替えたらすぐにリビングに来てね」
 何度か適当に頷いた。シャツの袖をまくって、洗面所で水をかぶる。少し醒めた顔で、ジャケットを片手にリビングにいくと、どこかせわしなく彼女はトーストとサラダと、スクランブルエッグを用意していた。僕は椅子の背中にジャケットをかけて、彼女が用意してくれた皿をテーブルへと移した。コップを取ってと、戸棚を指差されて、マグカップを二つ渡すと、コーヒーを淹れてくれた。
「九時には出ないと。教室を開けなきゃ。ママさんたちが暇つぶしのレッスンを受けにくるのよ」
「へぇ」
「だから食べてすぐに私は出るけど、あなたどうする?」
「僕も出るよ」
 あんまり会話はしなかった。彼女は忙しそうに洗面所とベッドルームを行ったり来たり。僕はもう出るよ、と言って帰ろうとした。
「また来てね」
「いつ?」
「いつでも。夕方には帰ってるわ」
 彼女はにこりと笑って僕に手を振った。そう、と僕は答えて家を出た。

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