7.ブルース

 冷えたタイルの道並みは、歩くとかつんかつんと凍った音を立てていく。メインストリートから歩いてスラムに戻っていくと、ホームレスが僕をまじまじと見つめた。僕も思わず見てしまった。この間凍死したホームレスが自分の城にしていた小さな世界に、もう別の支配者が来ているとは。
 彼は知っているだろうか。ここにいた人間の名前を。もしくは、この街の人々がどこかのおとぎ話みたいに忘れ去った『戦争』とやらの存在を。しわくちゃの顔に、伸びきった白髪の隙間から虚ろな目で、同じ顔をした人々を見ていく。僕は話しかけようとしたけれど、結局やめた。この街を出ていくことになったら、最後にはあの人に話を聞いてみようと思った。

 翌日は自分の家で読みかけの古本を読みきってから、図書館に散歩がてら出ていた。利用者カードを持っていないから、借りることはできない。だから、ここで読んでいくしかない。好きな作家もジャンルもなくて、とりあえず適当に掴んで読む。内容もつまらなくても上手くてもいい。というより、僕には文章の上手い下手がわからない。おすすめの図書コーナーに行って、棚に貼られたポップには“美しい文体と、切ない物語”と、に似つかわしくなさそうなオレンジのペンで書かれていた。紙に印刷されている文字をただ滑るように読み込んでいるだけの作業。何も考えなくてよくて、でも時折その文字から何かしらの絵が浮かんでくる。それは言葉それ自体からのイメージかもしれないし、あるいは文章からのイメージかも。でも、読んだ後には何も感じないで本を閉じている。好きな本のタイトルを聞かれても、正直僕には何が好きだったのかもうまく答えられそうにない。

 夕暮れになってきたから、図書館を出て、綺麗に舗装されたあの道を歩き出した。図書館も街の中心に近い場所にある。あの家も、大通りから外れてはいるものの、スラムからは遠くてクリーンな感じ。お花ちゃんの家の窓からは灯りが漏れていて、いることがわかったからチャイムを鳴らした。すぐに明るい声が室内から響いてきて、小走りで走ってくる音がしてから、お花ちゃんが扉を開けた。
「いらっしゃい。きてくれたのね」
 お花ちゃんは嬉しそうに言う。また来るように言ったのはそっちだったんじゃなかったか、と思うものの、僕は小さく頷いた。
「入って。もうすこしでできるから。あなた食べられないものとかある?」
「ない」
「そう、よかった」
 お花ちゃんは僕を家に促した。昨日と変わらない、花とオーナメントで飾られた賑やかな室内。ただ、昨日僕が座っていた席の前には、クロスが敷かれていた。その向かいの席にも、色違いのものが揃っている。彼女はそのままキッチンに向かって、鍋の中を覗き込んだ。いいにおいがする。
「あの家にいるとね……ああ、ワトールの家ね、会社のすぐ近くにあるんだけれど……あそこじゃ料理もさせてもらえなかったの。栄養ばかりに気を取られていて、すごく退屈なご飯ばっかりだった」
 彼女は明るい声でそう話した。
「サプリとか?」
 僕が聞いてみると、まさにその通りだと言いたげに、目を大きく開いて頷いた。
「そう! 薄味のスープと堅いパンにサラダ、それとほんのすこしのゴムみたいなお肉、それからサプリ。ワトール・コーポレーションご自慢のね。あなたはアンチエイジング・サプリは飲んでいないの?」
「飲んでないよ。君も?」
「マリーがそうだったから。でも、一回ためしに飲んでみたことがあるの。あれ、サプリのくせに飲んだら変な感じがするの」
「変な感じ?」
「なんていうかな、むかむかするの」
 彼女は苦い顔をしてから、鍋の火を止めた。自分の作った料理には満足そうに顔を綻ばせている。どうやらビーフシチューのようだ。パンと、サラダもついている。僕にしてみたら、豪勢な食事だ。
「いい時間にきてもらったわ。出来立てが一番美味しいもの。食べましょうか」
 彼女は皿に盛り付けて、テーブルに並べて、僕の向かいに座った。
「いただきます」
 一口食べるのを、彼女がずっと反応をうかがっていたから、すぐに「おいしいよ」と答えた。すると彼女もよかったと言って食べ始めた。
「あなたは今日、何していたの?」
「図書館にいたよ」
「街の? 何を読むの?」
「なんでも」
「おすすめは?」
「ない」
 なにそれ、と彼女はふてくされる。
「君は?」
 できるだけ話を逸らそうとそう言うと、彼女は考える。
「最近はね、あれが気に入ったわ。“僕は空の色を知らない”ってやつ」
「へぇ」
「ずっと未来の話でね、人類は地球に住めなくなっちゃったから、人工の星を作り出してそこに住むようになったの。でも、どこもかしこもリセット状態だから、これまで生きてきた偉人の記憶をね、子供たちの記憶に植え込んで育てていくことにしたっていう世界で。子供たちは偉人の記憶からいろんなことを学んで、早くから技術や知識を使って働いたりするんだけど、主人公の記憶だけは正常に働かなかったの」
「それで?」
「なんだけど、別の星から来た子と出会ってから、主人公の記憶が突然動き出して、その記憶が重要な機密事項を把握しているから、政府に追われることになってしまうの」
「結局、その子は空の色がわかったの?」
 僕が聞くと、彼女はいたずらっぽく笑った。
「読んでみて。全部まで話したら、つまらないじゃない」
 機会があったら、と僕は答えた。次に行ったときに覚えていれば、の話だ。
 食事が終わってからも、お花ちゃんはとどまるように言った。コーヒーを出されて、僕はそこに座ったままでいた。お花ちゃんは上機嫌だった。
「音楽は好き?」
「聞くけど」
 ノイズ混じりのラジオから、時折歌が流れることがある。歌は落ち着くものもあって、そのまま眠っていることもある。
「私、歌も歌うの。昼は音楽教室。子どもたちやその親が習いに来るの。夜はバーで、お小遣いくらいの金額で」
「そりゃすごい」
 音楽ができるっていうのは、僕にはないことだから、本当にすごいと思う。音楽だけでなく、僕にできないことをできる人は、みんなすごいと思う。ブルースは頭がいいし、エヴァンはおしゃべりも上手だし、料理もおいしい。
 その一方で、お花ちゃんは目を細めていた。僕は、彼女が話し出すのを待った。
「マリー・ワトールはね、そんな人生を送ることを許されなかったの。毎日食べる物も着る物も、付き合う友達も、生き方も決められていた。バルヴォが決めた人間と結婚させられて、あの会社を継ぐための人間を産むのに、良い土台になるように。私、自分の好きなように生きることを条件にね、家からの庇護は受けないようにしていたの。それも、期限付きみたいだったけれどね」
 コーヒーのカップを両手で包んでいた彼女は、僕の目を見て問うた。

「誰かに決められた人生をずっと生きているのと、短くても自分で決めた生き方を生きるの、あなただったらどっちを選ぶ?」
 二、三回、僕は瞬きをした。ずいぶん長い時間に感じた。
 誰かに決められた生き方も、自分で決めた生き方も、それがどういうものなのか、僕には想像がつかなかったから。今の僕は、誰かに決められたかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
「君がそう尋ねられるのは、それがはっきりしているからだと思うよ」
 少なくとも、彼女は後者を選び続けている。そして、二週間後、いや、厳密に言えば十一日後に僕に殺される。
「そうね」
 お花ちゃんはにこりと微笑んだ。僕はそれだけでいいと思った。
 彼女は、自分の選んだ生き方がどれくらい楽しいのかを僕に語りかけた。音楽教室に通う生徒たちがとても可愛いということ、ピアノの鍵盤を叩く小さい指が愛しいということ。バーの酔っ払いたちが自分の歌を聴いて気分を良くしているのが愉快だということも。いつかエヴァンの店に来たらどうかと思った。彼ならきっと、お花ちゃんを気に入るだろうから。喜んで彼女を天使ちゃんと呼ぶにちがいない。

 あの日の夕食から二日。お花ちゃんはあの夜に、次にいつ来て欲しいのかを指定してきた。なんでも音楽教室が発表会をやるから、忙しくなるのだと。

 その日は暇だったから、僕はブルースの事務所にあがりこんで、部屋のソファに寝転んだ。数分経って降りてきたブルースは呆れたように僕を嗜める。そこまで眠たくなかったから、家主に従った。ゴミ捨てをしに行ったり、ファイル整理の単調な仕事を延々とこなす。僕以外に事務員も雇っていないから、こんな雑務も大変だろうなぁと僕は淡々と、捨てるファイルと、そうでないものを振り分ける。ちょうど、事務員を雇おうとしたところに僕がやってきたから、機会を逃してしまったとブルースは以前そんなことを言っていた。

 昼頃だったろうか。曇り空が晴れることはなく、空は灰色に近い色をしていた。雪が降るかもしれないなとしかめ面をしたブルースは、暖房を入れながらそう言った。僕が昼飯をデリで買ってこようかと言おうとしたとき、ドアベルが鳴った。一度ブルースと視線を交わし、彼が顎で示したから、僕はドアを開けに立ち上がった。
「メリアムです」
 僕はドアの向こうにのぞかせた勝気な表情を、まじまじと見つめた。あぁ、婦警さんか。
 僕のことは怪訝そうに視線を投げつけてきたけれど、ずかずかと事務所に足を進めて、ブルースの仕事部屋に入っていった。
「突然すみません、ちょっとよろしいでしょうか」
「えぇ、たしか……ジェンキンス氏の事件を調べていらっしゃる方でしたよね? どうかしましたか?」
 ブルースも驚いたように眉をあげる。メリアムは形式的に警察手帳を取り出して、彼に掲げた。
「そうです、ブルース弁護士。再びお聞きしたいことがあります。ジェンキンス氏との交流関係はないと先日おっしゃっていましたが、その側近であるスペンサー氏について、お尋ねしたいことがあります」
「スペンサー?」
「はい。彼は秘書官を務めていましたが、それまでは弁護士になるためロースクールに通っていました。あなたと同じ学校です。覚えはありませんか? 年齢的にも、通っていた時期は重なっていたと思っているのですが」
 ブルースは彼女の顔を、気難しく眺めていた。メリアムはポケットから写真を一枚取り出して彼の机に差し出した。それでも表情は変わらない。僕からは写真の男が誰なのかが見えなかった。
「いや、覚えておりませんね。入学者の記録があったと思うので、見てみましょうか」
「助かります」
「ベンジャミン、上の部屋から緑のファイルを持ってきてくれ。スクールというラベルがついているやつだ」
「了解」
 僕は仕える執事のごとく階上に向かう。ブルースの私室には何度かこうした荷物運びに入ったことがある。生活感は事務所よりはあるけれど、モデルルームのようなきっちりとした並び。壁際は一面本棚で埋め尽くされている。法律に関する書籍と、これまで彼が関わってきた出来事に関するファイルがきっしりと詰まっている。そこから言われた通り、スクールというラベルのある緑のファイルを、指先でようやく引っ張り出した。
「悪いな」
 ファイルをブルースの机に出して、僕は数歩引いた。メリアムと彼のやりとりを眺めるためだ。
「スペンサー……名前は?」
「グレゴリー・スペンサーです」
「………そうですね、いるにはいますが、私はまったく覚えがありません」
 ブルースは名簿を広げて見せた。メリアムは食い入るように見ていたけれど、やがて自分の目でも確認できて気が済んだのか、ファイルを戻した。その名簿に、彼女が望んでいたものはなかったらしい。
「お手間をとらせてしまい、申し訳ありません。何か彼について知っていることがあれば、おしらせください」
「もちろん。警察に協力することは、我々の義務ですから」
 ブルースは愛想よく答えた。少しして、こうとも聞いた。
「野暮なことを聞きますが、同じ卒業生が何かあったのでしょうか? 彼も事件に巻き込まれたとか?」
「いえ。彼には疑いがかかっています。ジェンキンス氏殺害の」
「なるほど、そうだったのですか。疑いとはいえ、それは……残念です」
 ブルースは肩をすくめた。メリアムはちらりと僕を睨んでから、「では、失礼します」と足早に去っていった。扉の音が閉まると同時に、ブルースがため息を大げさについた。苦々しく口元を歪めている。
「……知っているんだ?」
「少し会話をした程度だ」
「どんな人?」
「臆病者で、用意周到。スクールでは毎回大量の課題を渡されていてな、生徒たちはいつもグループを組んでまとまって片付けていた。俺は彼とは別のグループにいたが、彼はいつも当てられないかびくびくしていたよ。その割にちゃんと用意はしている。弁護士になるためというより、スクールの教員たちに叱られないようにやっているように思っていたな」
 僕は名簿を覗き込んだ。モノクロの写真の下に、名前が書いてある。グレゴリー・スペンサー。僕は、あぁ、と呟きそうになった。
 この顔、もう数年経てば、僕にあの政治家を殺すように依頼したのと同じになる。
「言わなかったのは、どうして?」
「どうしてだろうな……」
 ブルースは頬杖をついて、考え込んだ顔をした。
「……三年前、俺がまだ他の事務所で働いていたとき、兄が冤罪で捕まった」
「冤罪?」
「殺人のな。兄はそのとき現場近くにいた。状況証拠で兄は連れて行かれて、何度も尋問を受けた。判決を待たずにあの人は自殺した」
 ブルースは淡々と語りながら、時折ふぅっと息を吐き出した。
「半年経って、別の犯人が捕まった。警察は、兄が犯人だと仕立て上げて、その事件を終わりにするつもりだった。兄は尋問に負けて自白、それが証拠になっていた。けど、尋問中の記録は“誤って”破棄されていた」
「だから警察は嫌い?」
「子供じみた理由だけどな。スペンサーのことを庇うつもりはないが、俺が警察にそこまでしてやる義理もない」
 ブルースは自分で言って苦笑した。
「姉は結婚間近だったのに、そのせいで婚約を破棄された。母はノイローゼになって、まともに会話もできなくなった。メディアからのしつこい取材という名の恐喝によって。アンチエイジング・サプリを飲んでいるっていうのに、一気に老け込んだ顔になっちまった。俺と姉は、サプリを飲むのをやめた」
 僕のことを見上げたその目つきは、とても鋭かった。そんな目をした彼を見るのは初めてだった。僕は黙って、彼のデスクの前で突っ立ったままだ。
「悪いな、いきなりこんな話をして」
「いいよ」
 ブルースは眉を下げて小さく笑った。飯を買いに行ってくれ、と僕に金を渡した。僕はいつもの通り、何にするのかと尋ねた。
「好きにしてくれ。あぁ、そうだ」
 彼は小銭を多めに出した。
「煙草も買ってきてくれ」
「銘柄は?」
「MM。デリのばあさんに言えばわかる」

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