6.フラワー

 依頼の期限が長いから、ゆっくり取り掛かかることにした。
 まず、僕は報酬を使ってメインストリートから一本外れた通りの古着屋で、ダウンコートを買った。ジャケットよりはずっと暖かい。それからスラムにある雑貨屋で、食料品を調達。賞味期限を過ぎていて、表の市場には出回らないものでも、平然とここでは提供している。ウイスキーのボトルを片手の指にひっかけて、アパートの階段を上る。
 夕方前で、工場労働者たちもまだ戻ってくる前だから静かだ。夕飯に食べる以外の食料品は戸棚にしまって、火をつけたストーブにケトルを乗せる。湯が沸くまで、鼻歌を歌いながらグラスと皿の準備をする。それから簡単な調理。優雅な時だなと思う。缶詰の食事とお湯割りの薄いウイスキー。背の低いテーブルにグラスを、皿は自分の膝に乗せる。床に置きっ放しのラジオに電気を入れると、ノイズの後にざぁざぁと言いながらカントリーミュージックが流れた。

 ここにはシャワー室がないから、僕はブルースの事務所で借りるか、近くの有料のシャワールームを使わなくちゃいけない。今日くらいはいいかと言っていると、僕は彼に怒られる。食事の後片付けが終わると、僕はラジオをベッドの近くに置いて、そのまま寝転がった。薄暗いランプを凝視していると、階下の方から賑やかな声が響いた。労働者たちが帰ってきて、きっと酔っ払ったまま喧嘩でも始まるのだろう。僕はこんな喧騒も嫌いじゃない。彼らの顔はてかてかしていなくて、意味のない言葉の羅列は聞いていても難しくないから。

 僕は道端で眠るように死んでいたホームレスのことを、また思い出していた。会長は、彼のことをよく知ったように話していた。きっと、そんな人間がたくさんいたんだろう。僕は戦争のことも、サプリメントの話も、生まれた年よりも前のことだからほとんど知らない。きっと、この街が少し前まですぐ近くで戦争をしていたことを鮮明に覚えていたのは、あのホームレスたちくらいなのだろう。でも僕は、彼の名前すら知らない。
 いつだっただろうか、ある依頼人が僕に聞いた。殺し屋をしていて、僕は人が憎いのかと。そんな風に思ったことはない。『人間』なんて漠然としたもの、好きでも嫌いでもない。ターゲットはターゲットだから手をかけるけど、そうじゃないのなら殺さない。それだけのことだ。理解されたいだなんて思っていないから、僕は依頼人から報酬だけ受け取って、その人の質問には答えなかった。

 三日後、僕はワトール会長から聞いたターゲットの居場所を訪ねた。場所はスラムとは反対方向の、どちらかというと治安の良いと言われている区域だ。昼前に起きてすぐに行ったから、何人かとすれ違った。みんな若くて真っ白な顔をしていた。着いた家は一人で暮らすには十分すぎる緑色の屋根の平屋だった。他の住宅街からは少し離されていて、ポストの脇には黄色い花がプランターいっぱいに咲いている。玄関には「Welcome」のプレートが下がっていて、僕はどこから入ろうか一瞬迷った。
 裏手に回って、人がいるか確認した。まだ誰もいないようだ。僕は家の前で立っていた。呼び鈴を鳴らすのかも考えていた。
 クローンがターゲットっていうのも初めてだ。僕は今までのターゲットのことをあんまり思い出せないし、それまでの出来事も鮮明ではないのだけれど、きっとこのクローンっていうのは僕の仕事の中では初めてかも。
「あら、お客さん?」
 振り返ると、彼女はいた。両手には紙袋を抱いて、写真とは違って金色の髪は結んでいなかった。ワトール会長の一人娘、のクローン。三十年前に自ら命を絶った人間の複製品。国家が作ることを進めておきながら、結局いる場所を失うことになる存在。そんなターゲットは首をかしげた。
「えぇ、用事が。ミス・ワトール」
 僕は素直に頷いた。
「そう、ご用件なら聞きましょうか」
 彼女は僕の先を歩いて、プレートを下げたドアを開けた。どうぞ、と僕を促す。
「寒いでしょう? あたたかいコーヒーくらいなら出してあげられるわ」
「どうも」
 十二月がはじまったばかりの季節だ。コートも暖かいけれど、もらえるのならばもらっておこうと家に上がった。木調の家で、その割にはしっかりした作りをしている。入ってすぐに、キッチンとダイニングテーブルが目に入る。テーブルの下には空色のラグが敷いてある。家具はたいていが緑色だった。左手にさらに部屋が続いている。部屋には花のオーナメントがいたるところに散りばめられていて、彼女はキッチンに紙袋を置くとそのまま湯を沸かし始めた。
「名前は?」
 彼女は振り返る。僕は玄関に立ったまま、肩を竦めた。
「お好きに」
 彼女は振り返って、つま先から顔まで僕のことを観察してから、
「あなた、私を殺しに来たんじゃない?」
 と、唐突に言った。僕は目を丸くした。
 そんなことを真っ先に当てられたのは彼女が初めてだ。クローンっていうのは、あれかな、何か超能力的な素質でも持っているのだろうか。だとしたら面白い。
「あなたからね、死のにおいがするの」
 彼女は僕が殺し屋とわかっていても、落ち着いてコーヒーの用意をしていた。僕は居心地が悪くなって、コートのポケットに手を突っ込んだ。一方で、彼女はうっすらと微笑んだ。死のにおい、僕が路上で死んでいるホームレスを見つけたときと同じだろうか。こんなにおい、って言うのは難しいんだけど、それがそのにおいだと、僕にもわかる。それは、僕がたくさん「死」を見てきたからだろう。それなら、彼女はなぜ?
「どうぞ、座って」
 彼女はダイニングテーブルの椅子を引いて、手で示した。僕は言われるがままに腰掛ける。カウンターキッチンから珈琲のにおいがする。彼女が視界の端から消えた。
「前にも何人か来たの。ビジネススーツを着たり、あるいはストリートのギャングみたいな人たちが。みんな、父が送った人間だったみたい」
 かちゃりと冷たい音、後頭部に銃口の気配。僕はゆっくりと瞬きをした。時間の流れが途端に遅くなっていく。
「手を挙げて」
 彼女の言う通りに、両手をそっと自分の耳の横まで上げて、降参のポーズを取る。
「怖くないの」
「何が」
「私が引き金を引いたら、あなた死ぬのよ」
「そうかもしれない」
 死はだれにでも訪れる。それが早いか遅いかくらいの違いだ。命は平等なんかじゃない。だが、死は平等だ。誰もが死ぬ。ホームレスも、政治家も。僕だって、いつかは死ぬ。
「これでみんな帰っていったの。自分は相手を傷つけるつもりでやってきたくせに、いざ自分がその立場になった瞬間、途端に尻尾を巻いて逃げていったわ」
「強いんだね」
 彼女の言う通りだ。多くの人間が、自分が仕掛ける側と認識しているときはなぜか強がってみせる。だが、それがわずかでも悪い方向に転がった瞬間、奴らはあっという間に逃げていく。そうやっていくうちに、自分の足につまづいて死んでいった人間を、僕は見たことがある。

 きっと彼女は引き金をひける。
 でも、今はそのときじゃない。
 仕事はこなさなくちゃいけないから。

 僕は短く息を吐き出した。すると、彼女が思い出したかのように言った。
「武器は持ってない?」
 銃がより押し付けられて、僕は頭を少し前に倒した。
「右ポケット」
 僕がそれだけ言うと、彼女は僕のコートに手を忍ばせようとした。
 一瞬。
 椅子を蹴って体を低く滑らせ、右手で彼女の腕を掴んで反転した。彼女は短く悲鳴を上げた。床に背中を押し付けた彼女の腕から拳銃を取って、僕はその上に体重をかけないように膝を立てて跨ぎ、その顔を覗き込んだ。床に金色の髪が広がって、こっちをきつく睨んでいる。手を伸ばして銃を取ろうとするのを、僕は手を軽く腕にあげて阻止した。
「……殺さないの」
 低い声で聞かれた。
「時間はあるんだ」
 僕は立ち上がって、拳銃からマガジンを抜き取って、テーブルに置いた。彼女はまだ横たわって僕を見上げているものだから、どうしたらいいのか迷ってしぶしぶ手を取って起き上がらせた。
「それに、コーヒーももらってない」
 彼女はまばたきを大きくしてから、ふっと息を短く吐き出した。彼女はキッチンに黙って向かった。拳銃のことなんか忘れたように、穏やかなコーヒーのにおいが充満して、テーブルに二つのマグカップが向かい合った。僕も倒れた椅子を立てて座り直す。
「砂糖とミルクは?」
「大丈夫」
 ブラックのまま、まだ湯気が立っているカップに口をつけて小さく啜る。
「……父から聞いているんでしょう。私がクローンだってこと」
 彼女は静かにこぼした。僕は頷いた。マリーは表情を変えなかった。
「私、“マリー”がどんな人か知っているの。
 どんなものが好きで、何をしてきたのか、どうやって死んだのかも。私、そういう風に生きることを望まれているんだと思ってた。
 だから、そうじゃないように生きてみたの。そのせいなのかしら。もう、私は必要なくなったって、ことなのね」
「そうみたいだね」
 彼女の言ったとおりだ。彼女はもう、この社会からは不要になった。そうみなされた。
「殺し屋さん、あなたに一つお願いがあるの」
 彼女は僕をまっすぐみつめた。内容によるから、僕は視線を返しただけだった。
「私を殺すのがあなたの仕事だっていうのはわかってる。でも、クリスマスまでそれを延ばして欲しいの」
 会長から言われた期日は二週間。それまでにはクリスマスという行事ももう終わっている。なら別に、そのくらいのことは聞いても文句はないだろう。
「いいけど」
「あなたって素直すぎない?」
 自分でお願いしておきながら、驚いたように言った。
「それまでに私があなたのことを警察に言って、あなたのことを逮捕するようにしたら、どうするの?」
「そうするつもりだったの?」
 僕が聞き返すと、マリーは首を横に振った。
「マリー・ワトールは三十年前に死んでいる。警察になんか、言えるわけないわ。それに、その通報も父が消してしまうんでしょうね」
「そう」
「それと、もう一つ」
「なに」
「それまで何回か私のところに来て」
「なぜ?」
「私があなた以外の誰かに殺されないように」
 会長は僕以外にも誰かを雇っているのだろうか。これまで彼女を殺そうとして失敗しているみたいだけれど、受けた依頼は遂行するから仕事と呼ぶ。報酬ももらっている以上、仕事が勝手にやられてしまったら、こちらも困る。
「わかったよ」
「ありがとう」
 彼女はにこりと笑った。会長が見せた写真と、そのままの笑顔だった。
「あなたの名前、さっき、好きに呼べばいいって言っていたわよね? 本当になんて呼べばいいの?」
「お好きに」
 彼女は僕の顔をまじまじと見て、悩んでいた。小声でぶつぶつと名前を連ねている。そこまで何を悩むことなのだろうかとコーヒーを飲みながら待っていると、彼女は口の動きを一度止めた。
「なら、デイヴィットってことにするわ」
 案外普通の名前だったから、僕も「わかった」としか答えようがなかった。コーヒーも残りを全部飲んで、席を立った。
「ごちそうさま。次はいつ」
「明日にでも。夕食でもごちそうするわ」
「それはよかった」
「あなたも、私のこと、マリーって呼ばないでくれるかしら。他の名前でもなんでもつけてくれて構わないから。ほら、ターゲットのことをモノの名前で呼んだりする人、いない? 周囲に感づかれないように、みたいな」
 また変な注文だな、と僕は彼女の顔を見つめた。微笑んで、小首を傾げてくる。玄関の扉まで数歩進んで、ドアノブに手をかけたところで振り返った。
 部屋全体が見渡せる。窓には花の小鉢がぶらさがっている。真っ赤な花。玄関にも花が植えてあったし、写真の彼女も花を両手に抱えていた。
「じゃあね、お花ちゃん」
 僕がそう言うと、彼女は目をぱちくりさせた。でもすぐに、「またね、デイヴィット」ととても親しげに僕に手を振った。まるで、古くからの友人どうしみたいに僕たちはそう挨拶をして、別れた。

Next