2.ニュースペーパー

 仕事が来ないときは、僕はブルースの事務所に押し掛けたり、あるいはバーに行ったり、図書館に行ったりする、ごく一般的な市民だ。
 そう、この町が、この国が求めている、『健全な精神と健全な身体は健全な国家のため』の、構成員の一人。とはいえ、僕はこの街の市民なんかではないのだけれども。

 シャワーを浴びて、彼の仕事部屋に戻ると、ソファの前のローテーブルにファイルと綺麗に畳んだトレンチコートが置いてあった。ブルースは自分のデスクに書類とノートパソコンを広げて、もう僕のことなんか見えていないようだった。
 ファイルの上にはメモが添えてあり、そこには彼のクライアントの住所が記されている。僕は黙ってトレンチコートを羽織り、ファイルを片手に事務所を出た。
 息を吐き出すと、白い煙がふわりと舞った。ファイルを脇に挟んで、ポケットに両の手を突っ込んで通りを歩き出す。

 ここは、灰色の街だ。すれ違う人たちもコートの襟を立てて、早足で通り過ぎていく。皆、同じような顔をしている。シワもなくて、特徴も特になくて、みんな同じくらいの年齢に見えて……僕はそれをてかてかした顔だと、ここに来て最初にそう思った。

 事務所の隣を通るメインストリートを進み、さらにそこから、事務所に遠ざかるように逸れた住宅街の中に入ると、緑色の屋根の家を見つけた。名前を照らし合わせてからドアベルを鳴らすと、二つ数えたくらいで女の人が顔を覗かせた。
 プラチナブロンドの髪、見知らぬ男がやってきたことに怪訝そうな顔。それでもって、覚えにくそうな、どこにでもいそうな顔。でもきっと、シャワーを浴びてブルースのトレンチコートを羽織っていることで少しは彼女の不信感は和らげることはできたのだろうか。
「ブルースの事務所の使いです。ファイルを渡すように言われました」
 僕はファイルを差し出すと、彼女は思い出したかのようにファイルをひったくった。ページをぱらぱらめくってから、何を書いてあるのか知らないけれど、その内容に彼女は心底ほっとしたようだ。ファイルを胸に押し当てて、嘆息する。
「ありがとう。先生によろしく伝えてください」
「はい」
 何をよろしく言えばいいんだろう。頷くだけ頷いて、僕は事務所に戻った。

 メインストリートにまた出ると、道端にパトカーが停まっていた。通行人たちはちらちらと気にした様子を見せていて、降りた警官が野次馬たちを鬱陶しそうに追い払う。パトカーの助手席からも人が出てきて、路地に歩いていく。それを尻目に、僕はブルースの事務所にノックをしないで入った。
「早いな」
「よろしくって言ってたよ」
 僕は言われた通りに、彼に伝えた。
「そうか」
 ブルースは淡々と答えた。窓を見やると、暗くて厚ぼったい雲が積もっている。そろそろこの街にも雪が降るころなのだろう。
「昼食は食べていくか?」
「うん」
 ブルースは顔を上げずに聞いて、僕は返事をした。デリで二人分のサンドウィッチとドーナツを買ってくるのは僕の役割だ。僕がいないとき、彼は昼食をとっているのだろうか。昼時になってようやく伸びをしてみせるまで、彼は根っこが生えてしまったみたいに椅子にくっついている。

 僕はコートを脱いで、ソファに座った。昼食まで時間があるから、暇つぶしに新聞を読むことにした。一面には政府が不祥事で個人情報を民間企業に流してしまった、という内容。
 僕にはよくわからない内容だが、とにかく「一大事」のようだ。これはブルースにはなしを聞いたほうがわかりやすいだろうな。ソファの上に膝を折りたたんで座り、新聞をばさばさと折って三面記事をめくると、隅っこのほうに市議会議員の殺人事件について記述があった。もう何日か経っているけど、犯人は議員になんらかの恨みを抱いていた人物として捜査を拡大しているという、ありきたりなことしか書いていなかった。半分正解、半分不正解。
 その隣には、サプリメントの広告。カラフルなカプセルには、いろいろな効果がある。きっと、僕のいないときのブルースは、こういったものを飲んでいるのかも。安価な無味の、栄養素の塊は、とっても効率的と謳っている。紙をめくる。今週のポッドに入った人たちのリスト。名前の羅列は、この国の土になった証拠。僕はその名前を眺める。みんな知らない名前、覚えることもない名前。それは街並みの顔となんら変わりやしない。
 それから、さらに紙面をめくると、『戦果』の話。どっかの遠い場所で、どのくらい人が死んだとか、小難しい名前の街を取った取られたの話。

 記事を読み終わらないくらいで、呼び鈴が鳴った。ブルースが視線を僕に向けたので、新聞を置いて扉を開けに行った。
「お話をうかがいたいのですが」
 扉の隙間からねじ込まれた警察手帳。さっき、メインストリートに停めていたパトカーの助手席から出てきた警官だろうか。婦警さんで、気が強そうに振舞いたいのか、僕が扉を開くと容赦なく踏み込んだ。今から突入しようとしているくらいの勢いだ。僕は扉にかけていた手を離して、一歩退いた。
「弁護士は奥に」
「えぇ、どうも。あなたは?」
「小間使い」
 彼女は僕をしげしげと眺めると、案内されるのも待たずに、足音を立てて奥の仕事部屋に向かう。開け放たれたままの玄関口をそっと閉めて、僕は後に続いた。
「メリアムと言います。突然うかがって申し訳ありません。現在、ある殺人事件について調査をしておりまして」
 ブルースのデスクの前に婦警さんは直立し、ブルースの方もきっちりとネクタイの位置を正して彼女と握手を交わした。彼女は言っておきながら、あまり申し訳なさそうにしているようには見えない。
 むしろ、彼女が持っている権力の前では、気難し屋のブルースも協力的になるべきであると言いたげだ。ブルースは眼鏡を押し上げる。いつも不機嫌そうな顔を、今はクライアント向けの、ちょっと口角をあげた笑みを浮かべたものにしている。
「聞き込みでしょうか」
「はい。先日殺害されたジェンキンス議員のことはご存知でしょうか?」
 さっき新聞で読んだ、殺された議員のことだ。
「えぇ、まぁ。テレビで見ました。痛ましい事件です」
「殺害されたのはここの隣のメインストリートからすぐの場所です。事件発生時のことは憶えていらっしゃいますか?」
「先週の金曜日でしたよね?」
「はい」
「……そうですね、その日は変わらずこの事務所にいました。後ろにいる彼もです。私は二十時ごろに、この事務所の上にある自室に入りました。事件は確か深夜に起こったと新聞で見ましたが、何か騒ぎを聞いて起きた、ということはなかったと思います」
「なるほど。ジェンキンス氏とあなたは個人的な接触はありましたか? その際に、何か恨みを買われているということは?」
「彼が選挙活動をしている際に握手を交わした程度です。彼のこと自体はよく知りません。あとは新聞やテレビで見聞きした程度で」
「あなたの知り合いで、ジェンキンス氏と関わりがあるという方は。特に弁護士仲間とかで」
「いいえ。私なんて、家庭問題を扱っているものですから」
「わかりました。またお話を伺うかもしれないので、よろしくお願いします」
「是非とも」
 メリアム警官はくるりと向きを変えて、僕のことを睨みつけてから出て行った。どうしてああも威嚇を振りまいているのだろう。僕は肩を竦め、ブルースを見た。

「政治家なんて、恨みを買われるのが仕事みたいなものだろう」
 彼もまた呆れたような顔をしていた。時計を見やる。彼はまた小さくため息をついた。
「昼食、買ってこようか」
「あぁ」
「なににする」
「いつもので」
 わかったと返事をした僕はコートを再び借りて、いつも行くデリに足を運んだ。

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