13.ベンジャミン

 ブルースは忙しそうだった。デスクにはたくさんの書類とファイルが積み重なっていて、まるで彼の城塞だ。僕は彼が処理し終わったファイルを元の位置に戻したり、いらなくなった紙をビリビリに引き裂いてゴミ箱に捨てたり、たまにコーヒーを淹れたりと変わらない雑務をしていたんだけれど、今日はいつもよりその雑務が多かった。郵便局に二回行かなくちゃいけなかったし、彼が借りっぱなしの本を彼の知人宅に届けに行ったりもしなくちゃならなかった。客は一回来たけれど、それもすぐに終わった。

 先日降った雪は積もることはなく、濡れた地面が余計にこの灰色の街を冷やしている。
 配達をしてから、僕はデリで二人分の遅い昼食を買って帰る。事務所に縫い付けられたブルースを囲む城塞は、朝来たときに比べれば少し小さくなっていた。向こうは顔を覗かせてきて、息をふーっと吐いた。
「今何時だ?」
「二時半」
「そうか。何買ってきたんだ」
「ベーグルサンド」
 チキンか、ベーコンのやつ。助かった、とブルースは椅子に座ったまま大きく伸びをした。適当にファイルを横に押しやって、スペースを確保する。僕はそのスペースにベーグルとコーヒーの入った紙袋を置いた。ブルースが選ばなかった方のベーグルをとって、僕はソファに座って食べる。ブルースは食べながらもファイルをめくっている。朝からデスクに離れたのを見ていないのだけれど、彼はもしかしたら椅子に根を張ってしまったのだろうか。
「そんなに忙しいの」
「まぁな。クリスマスには片付けたいだろう」
「どうして?」
「どうしてって……」
 ブルースはこっちを見てまばたきをする。なんでそんなことを聞くのかって顔だ。
「家族と過ごしたいだろ、明日くらい」
「明日?」
 僕は素っ頓狂な声をあげてしまった。ブルースの部屋にあるカレンダーを確認する。そうだ、今日は二十四日だ。その隣の二十五日には、赤く日付のところが囲まれている。
「なんだ、それすらも気付いてなかったのか」
 呆れたようにブルースは言う。
「家族と過ごすの」
「あぁ。姉と母親にだけどな」
 だから積もっている仕事はさっさと済ませたい。仕事が残った状態で家族のもと行っても、彼は仕事が気になってしまうから。ブルースはすでに手元のファイルを忙しそうにめくっている。それから面倒くさそうにため息をついた。
「どうしたの」
「これが片付いていなかった」
「なに?」
「メリアム刑事のストーカー被害について。警察に手続きを送らないと」
「彼女警察だよね」
「あれは刑事課。ストーカーは生活安全課の担当。とはいえ……この写真だけじゃ安全課も動くかわからないな。ベンジャミン、後で彼女に連絡を入れておくから、彼女の家に行ってこい」
 もう少しはっきりとストーカーだと言える証拠があるか聞いてこい、ということだ。わかった、と僕は返事をすると、ブルースは食べ終わるなり電話をひっつかんで彼女に電話をした。住所をメモして、電話を切る前に僕に寄越した。警察署から歩いて十五分といったところか。僕も食べ終わってからすぐにメモを持って出かける。彼女は昨日から休暇を取っているらしい。

 マンションのインターフォンを鳴らすと、そっと扉が開いた。僕だとわかると、メリアムは大きく開いた。前にブルースの事務所に来た時と同じような格好をしていた。
「どうも。ブルースの事務所から来ました」
「電話は受けているわ。証拠を受け取りに来たのよね」
 中に通されて、メリアムは書類と写真を渡してきた。写真は前に渡されたような、人影の写真だ。顔までははっきりと写っていない。マンションの近くにあった植え込みにいるんだろう。もう一つの紙には「通話記録」という記載があった。
「どれも非通知なの。機械音声だから、誰とも判別はつかなくて」
 すべてブルースにそのまま渡してしまった方が楽だろうと思ったけれど、一応目を通してみる。「非通知:捜査をとりやめろ(12/21/19:21)」「非通知:捜査をとりやめなければお前を殺す(12/22/20:09)」そんな内容がずらりとリストアップされている。ずいぶん暇のある人間だ。
「渡しておく」
「えぇ」
 僕はマンションを出た。どうも彼女は僕のことが嫌いらしい。そんな感じがはっきりとわかる。もらった証拠を一つのファイルにまとめてもらって、階段を降りる。写真にあった植え込みは入り口とは反対方向、つまりはベランダ口の方にある。試しに行ってみようかと近付く。まさか、こんなときにまで律儀に隠れているものなのだろうか。こんなに寒い日だっていうのに。ゆっくりと歩いていくと、だんだん写真で見た景色と目の前がかっちりと噛み合った。
 ひゅ、と短く空を切る音がした。とっさに身をかがめたから、それは僕の頭上を空振りした。転がるように避けて、背後を振り返る。
 鉄パイプを持った知らない男が、青ざめた顔で息を切らしている。僕はもらった写真を思い浮かべる。顔までは見ていないけれど、きっとこんな感じの人間だろう。体格は、おそらくそうだ。
「誰だ、お前は」
 と、相手が言う。それはこっちのセリフなんだけどな、と僕は戸惑う。相手の出方を待った。どう動けばこの男をねじふせることができるのかを、僕はすぐさま頭に浮かべて、じっと男を見つめた。すると、男は数歩退いて、鉄パイプを落とした。おろおろしながら、走り出す。なんだ、僕を殺しにきたわけでもないのか。追うか迷ったのも一瞬、ファイルを脇に挟んで僕は走って、男の腕を掴んでひねり上げた。倒れた男の背に乗る。近くにいた通行人が何事かと僕を遠目で見る。
「メリアム呼んできてくれる?」
 そこのマンションにいるから、とその通行人に頼むと、はい、と変に高い声で返事をすると駆け出した。僕の下でもがいている男は離せ、と喚いている。その騒ぎを聞いたのか、マンションから人が出てきた。僕をしげしげと観察してから。
「なんだ、泥棒か?」
 と、つかまったことになんだか嬉しそうに聞いてきた。
「そんなところ」
 僕がそう答えると、住人は満足げに頷いて戻っていく。ジャケットも着ないでメリアムは階段を駆け下りてくると、はっと息を呑んで口を覆った。僕は男から降りて、そっと離れた。彼女は慌てて警察を呼んでいた。僕は騒ぎが大きくなる前に、さっさとブルースの事務所に戻ることにした。彼らはきっと、僕が誰なのかとか、そんな不要なことまであれこれ聞いてくるだろうから。

 帰ってきたときには、もう日が傾きかけていた。彼の山積みの書類はほとんど片付いていて、彼の顔は彼が首を伸ばさなくてもはっきりと見えた。
「ずいぶん時間がかかったな。何かあったのか」
「ストーカーの張本人がいたんだ」
 ブルースは片眉をあげて、ほう? と、続きを促す。だから、上着を脱いでソファにぼすんと沈み込んでから話を続ける。
「彼女の家の近くにいたんだ。ストーカー犯、メリアムの同僚だったんだ。電話での脅しも、認めてる。それで、警察も来た。暴行未遂としても現行犯」
「刑事に手を出そうとしてたのか」
「じゃなくて、僕に。受け取った証拠品を回収するつもりだったんだろうけれど」
 僕は渡された証拠品をブルースに渡した。脅迫電話の記録を見たのか、彼はしかめ面をした。
「しかしなんだって、同僚が彼女を?」
「さぁ」
 ブルースは証拠の書類や写真に目を通し終わってから、それらを封筒に戻した。僕もすぐにその場を離れてしまったから、彼らの事情はよくわからないままだ。ブルースは難しい表情のまま、彼なりの推測を立ててくれた。
「わざわざ同僚が脅迫の電話、か。もしかしたら、ジェンキンスが死んで、その同僚には、何か知られたくないことがあったのかもしれないな」
「秘密、とか?」
「あぁ。ジェンキンスの秘書、ほら、刑事がここに来て聞いて来ただろう? 俺の同期。あいつは汚職事件の罪で辞職した。お前は覚えていないかもしれないが。あの事件はあの男が責任を取らされて辞めた。でも、刑事はあいつのことを気にしていた。おそらく、何か繋がりがあると思ったんだろう。それを知られたくない同僚とやらが、彼女を脅した」
「何か、って?」
「さぁ。ただの憶測だ。安い推理小説によくある話だ」
 そっか、と僕は頷いた。ただ、ブルースもそんな憶測の話にあんまり時間を費やしている暇もない。彼はすぐに首を横に振った。
「他になにかあったか?」
「今度は裁判所での弁護士をやってほしいって。今回の分は後日ちゃんと支払いもする。って伝えてくれと」
 メリアムは初めて僕にお礼を言ってきた。その割にはあまり嬉しそうじゃなかった。お礼が言われたくてしたことじゃないから、いいんだけれど、メリアムは「もう依頼のことは結構です」と言った。裁判でまた頼むだろうから、そのときはよろしく頼むということをブルースに伝えて欲しいと。僕は用事が済んだからさっさと帰ろうとした。そうしたら、メリアムは僕を呼び止めた。なに? と聞くと、彼女は決まりが悪そうな顔で、
「ごめんなさい」
 と、謝ってきた。
「なんで?」
「私、あなたに対して露骨な態度を取っていたわ。公平じゃなかった」
 そんなことか、と僕は視線を落とす。
「最初からそうでしょう」
 え、と彼女は聞き返す。僕は説明するのも億劫だったから、帰ることにした。

 公平じゃなかった。議員が死んだことには血眼で捜査をしたけれど、路端で死んだホームレスはどうってことない話になる。僕にだけじゃないのだ。でも、僕に彼女を責めることはできない。それが彼女の仕事だから、なにより、誰だってそうなんだ。でも、そのとき彼女の顔を見たとき、彼女がどんな顔を持っているのかを、ほんのすこし僕はわかることができた。
 ブルースはそうかと話を聞いていた。とりあえず、片付けなくちゃいけない仕事が一気に終わったような感じで、彼もほっとしているようだった。日が沈んで、部屋の時計がぼーんと鳴った。ブルースは少し晴れやかな表情で、片付いたテーブルから離れた。凝った肩をほぐすように腕を振り回す。
「ご苦労だったな。明日明後日は事務所も閉めたままだから、来ても意味ないからな」
「うん」
 彼はこのまま実家に行くらしい。コートとカバンを用意して、電気を消した。僕も上着を着て、一緒に外に出た。今は外もライトアップされていて明るい。人通りもなんだか多く感じる。
「ブルース」
「なんだ」
「僕を雇ったのってさ、なんでだったの」
 彼はきょとんとしてから、笑った。彼がこんな風に笑うのって、珍しい。マフラーの隙間から白い息が煙のように浮かんでは消える。
「なんとなくだよ。悪いか?」
「いいや」
 僕もつられる。悪くない。それから、もう一つ。
「ベンジャミンって、君のお兄さんの名前?」
 ブルースは片眉を上げた。こんなことを聞いて怒るのかな、と思ったけれど、彼は穏やかな顔で微笑んだ。
「兄の名前はベン。ただのな」
「そっか」
 もう少し、お兄さんの話でも聞いてみてもよかったのかもしれない。そのときのブルースの表情は、いつもの気難し屋みたいな顔から解放されていたから。でも、そんな話も、これからたくさん家族とするんだろうから、僕の役目じゃない。ブルースが口を開いた。また、ほわっと白い息が上がった。
「メリークリスマス、ベンジャミン」
「うん。メリークリスマス」
 彼の言葉を復唱するように僕は応える。彼とは反対方向へと歩く。
 もう、彼と会うことはないだろう。落ち着いた茶色のソファも、綺麗に折りたたまれた新聞も、もう目にすることはない。

 石畳をコツコツと歩く音が、彼の足音も、他のものと混ざり合って聞こえなくなる。道行く人は、弾んだ声で話をしている。どこに行こうか、何を食べようか、何が欲しいかとか。通りをずっと歩いていると、路端で、かつて僕が知っていたホームレスが陣取っていた場所に新たに布陣している別人が、縮こまっている。僕はポケットに入っていた小銭を、彼の目の前に置いた。彼はさっと小銭を拾って、大事そうに懐にしまった。僕は声もかけずに通り過ぎる。

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