11.マザー

 そうやって僕たちはしばらく居座った。彼女はエヴァンとのおしゃべりを楽しんでいたし、途中で他の客とも一緒に話し始めた。あげくには歌い始めたりしていた。ピアノで伴奏も弾いたりしていた。彼女はずっと笑っていた。
 途中でいろいろと料理も出してもらったけれど、今日はエヴァンの奢りにしてもらった。
 彼女はあれから数杯アルコールを入れて、帰るころには足元がおぼつかなかった。行きのときよりも、なんだか機嫌がよさそうで、唇の先で何かぼそぼそと歌っている。
「タクシー呼ぶ?」
「平気。すぐだから」
 僕は彼女を片手で支えて、エヴァンに食事の礼を言った。エヴァンも機嫌が良くて、また連れてくるようにと言った。お花ちゃんのおかげで僕もタダ飯をもらってしまったのだから、よかったというべきなのか。
「なぁ、アンドリュー」
「なに?」
「その子、君の恋人なのか」
「……いや、別に」
 恋人になった覚えはない。ただ、一定期間の約束事があるだけで。エヴァンはそうかい、と肩を落とす。
「周りの男が放っておかないぜ」
「そうだろうね」
 なんてったって、彼女の父親が命を狙っているんだから。
「恋人を作れだなんてことを勧めるつもりはないけどさ、アンドリュー。君には大切な人っているのかい」
 エヴァンはドアに寄りかかり、腕を前で組んで僕に尋ねた。僕はお花ちゃんを横目で見た。酔っている彼女は、時折小さな笑い声を漏らしていた。同時に眠たそうでもあって、僕たちの話は耳に入っていなさそうだ。エヴァンは、彼女が僕にとって大切な人なのかと問うているのかと思った。
「エヴァンにとって、僕って、君の言う大切な人なのかな」
 そう聞き返すと、彼は目をぱちくりさせてから吹き出した。
「かわいいこと聞くなよ。うん、そうだな、変わっているけれど、大切な客だ。いや、俺は友人とも思ってる。そうだな、君もとんだ変わり者だけど、俺はこのあたりの連中が大好きさ。なんでこんな話になったんだっけ?」
「君が、僕に大切な人がいるのかって聞いたから」
「あぁそうだった。冷えるから、答えはまた今度聞くからさ」
「わかった」
「またな」
 エヴァンは僕たちが歩き始めても、店の外で手を振って見送った。酔いが覚めるくらいに冷え切った空気だった。きん、としていて、息をするたびに、肺に冷たい風が入り込んできている感じがした。
 僕は、エヴァンがどうしてあの店を始めるようになったのかが少し気になった。この街の推奨するあらゆるものを拒絶した者たちが集まる、小さな天国。気にはなったけれど、聞けないままになるかもしれない、とも思った。でも、エヴァンなら喜んで語ってくれるかもしれない。
 お花ちゃんはやっぱり眠たそうだったから、僕は彼女が転んでしまう前に彼女を背負うことにした。

 彼女の家の通りまで少し、というところでずっと誰かがあとをついてくるのが確信に変わった。エヴァンの店を出てからずっと、僕たちを追いかけてきている。振り返ってみても、姿はない。といっても、このあたりは住宅街だからどこにでも隠れられる。僕は立ち止まってから、お花ちゃんの様子を伺って、方向を変えた。
「どこいくの?」
 僕が道をそれたことにお花ちゃんも気付いたみたいだ。このまままっすぐ行けば家に着く。けれど、そこで処理をするのもなんだか面倒になりそうだ。すぐ近くの角を曲がると、人気のない路地になっていた。
「デイヴィッド?」
「ちょっと待ってて」
 僕は彼女を降ろすと、こっちにくる相手を待った。こちらが尾行に気がついてしまったのなら、相手も出てくるだろう。せっかくいい雰囲気で帰れるところだったんだけどなぁ、と首を横に振る。バルヴォが焦れて新しく雇ったのだろうか、それとも随分と前に依頼された議員殺害の依頼者が、また僕に口止めをしに来たのだろうか。そんなことをするつもりはないから、さっさとつけまわすのをやめてほしいくらいなんだけれど。それに、僕を始末した人間がまた何を話し出すのかわかったものじゃないというのに。
 僕たちの後ろをずっとついてきた気配がだんだんと露骨にこちらに近付いてくる。どうやら、本当に諦めたようだ。
 相手がこちらに一歩踏み出すのと同時に、振り返りざまに腹に一発蹴りを入れる。人影はよろめいて背中から転んだのを、僕は馬乗りになって襟首をつかむ。誰何すると、向こうは呻いた。通りの明かりに照らされたその顔を、見た覚えはなかった。誰だ、と聞くと相手の男は、小さい声でワトール、と言った。じゃあ、お花ちゃん目当てだ。エヴァンの言っていることも間違いじゃなかったな。
「先に仕事を引き受けているのはこっちなんだけれど」
 バルヴォ・ワトールは僕に依頼したはずなんだけどな。待ちきれなかったのだろうか。
「依頼人に伝えておきなよ。ちゃんと仕事はするって」
 上からどいてやって、男が立ち上がるのを待った。何もしてやるつもりはなかったけれど、彼はひどく緊張した様子で僕を何度も振り返りながら去っていく。今日のところはこれでもうこないだろう。もしかしたら、ただの監視のつもりだったのかも。
「行こうか」
「殺さないの」
 お花ちゃんははっきりとした声で聞いた。影に隠れるように、膝を抱えていた。
 さっきの人のことかと聞くと、彼女は強く頷いた。だから僕は殺さない、と答えた。
「人を殺しているのに」
「仕事だから」
「仕事じゃないと人は殺せないの」
「一応」
 僕は彼女の腕を取って、さっきまでの通りに戻る。眠たそうに彼女は目を細めていたから、そのまま眠っていてくれないかなと思った。けれども彼女の意識はすっかり醒めてしまったようだ。また背負って行こうとしたけれど、彼女は歩くときっぱりと言った。小さな笑い声は止まってしまった。僕ももうこれ以上本当は動きたくなかったし、話すのも億劫だった。彼女の家の前で立ち止まり、部屋に入るのを確認してから僕も帰ろうとしたのだけれど、彼女は結構強い力で僕の腕を掴んだ。
「泊まっていって」
「どうして」
「どうして?」
 向こうは信じられない、といいたげに大げさに表情を歪めた。
「私、さっき、殺されるところだったんでしょう?」
「わからない。でもちゃんと言っておいたよ」
「また来たら、守ってくれないの?」
「君、本当に酔っ払っているんだね」
 僕が誰なのか、忘れてしまっているのだろうか。お花ちゃんはじっと僕の方を見てから、手を離した。バッグの中をがさがさ手探りしながら鍵を探し、時折僕に視線をやる。僕がその間に逃げないか見張っているみたいだ。
「あなたはちゃんと約束を守ってくれそうなんだもの。そうでしょう?」
 お花ちゃんは寒い、と文句を言いながらようやく開いた部屋に僕を急かす。バルヴォ・ワトールは僕があの男を追い返したことも見越しているのだろうか。それとも、僕が彼との仕事を忘れているんじゃないか知りたかったのだろうか。

 でも、そうだとしても、お花ちゃんが取り決めてきたクリスマスも、もう目の前にまで迫っているのだということに、彼女の部屋のカレンダーで僕は思い出した。
 お花ちゃんはふらついた足取りで、リビングで水を一気に飲んでから、コートも適当に床に投げ捨ててしまった。僕はそれを拾い上げて、どうしようかと戸惑ったのだけれど、とりあえず椅子にひっかけておくことにした。
 彼女はベッドに倒れこんで靴を脱ぎ捨てる。
 うつぶせになっていたのだけれど、僕をちらりと見やってから、「帰らないでね」と呟いた。わかったよ、と僕は靴を拾って近くに置いてあげた。寝室のソファで寝ていようと深く腰掛けると、どこに行ったの、と声を上げるので僕はここだよ、と答える。
「ねぇ、何かお話をして」
「何を?」
「なんでもいいわ……あなたの話が聞きたいの。いつまでそこにいるの? ちょっと、こっちに来てよ」
 僕はうとうとしていたのだけれど、これ以上黙っているとお花ちゃんが騒いでしまうから、重たい体を引きずってベッドに腰掛けた。
 彼女はさっきとはうってかわって、子供のようにころころと笑っている。あたたかいクリーム色のランプが彼女の顔をぼんやりと照らしていて、それがやけに彼女を幼く見せるのだ。
「メルキオールと過ごしていたときのあなたの話、もっと聞きたい」
 他人の口からその名前が出てくるとは意外だったけれど、そうだ、と僕は彼女に話したことを思い出す。あっけなく死んだ亀。僕の手の上をそろりそろりと歩いた姿。僕は思い出したのだっけ。
「あなたはどんなところにいたの?」
 メルキオールの話をしたときに、そのことまで話すとややこしくなるからと話していなかった。
「許されたい人が行くところだよ」
 養母は僕に、そう教えてくれた。ここはどこなのだと問う僕に。
 見上げるほどの高い天井に、読めない表情の人物が並んだステンドグラスの面々。古びた木の長椅子には、膝をつけるための台が取り付けられている。そこで人々は跪いて祈る。丸い形のその建物は、やけに声が響いた。とくに……そう、冬は響く。
 室内なのにとても寒かった。その日、僕はコートを着ていなかったから。
「誰が?」
「さぁね……」
 僕の場合、それは母だったのかもしれない。
 母親。僕は彼女をそう呼んだ記憶は、今のところ一度もない。もうだんだんと記憶の奥底へと沈んでいってしまうその人の顔を思い浮かべてみると、あのときの僕は彼女をとても大きな人だと見上げていたのだけれど、今にしてみれば、小柄な人だっただろう。
「ママは? それに、パパは?」
「母親って、育て人? 産んだ人?」
「産んだ人」
 ちょうど頭の中に浮かび上がっている人のことだ。真っ赤な唇は血でも塗ったみたいで、ファー付きのコートの両手を突っ込んだまま、僕を見下ろしている。
「僕をそこに連れてくると、それきり会うことはなかったよ」
 一年近く僕は彼女の腹を借りて、この世に出てきてしまった。それから数年、彼女の元で過ごしていたのだが、ある日彼女は僕をあの場所に連れてきたのだ。出迎えた女性はその後僕の養母となった。二人の会話はとても難しく聞こえた。僕がなぜあの場所に連れてこられたのかも、そして、どうして今まであの母と呼ぶ彼女が僕を数年手元に置いていたのかも、理由は今もわからないままだ。
 養母はしゃがんで僕を見つめた。見慣れない服装をしていたので、最初は戸惑った。彼女はやんわりと微笑んで頭を撫でた。そして、あの人は僕を見下ろしたまま、言った。
「あたしにはね、あたしの人生があるの」
 いい? という彼女に、僕は頷いた。思い返せば、僕は何も文句もいうことができない。
 彼女の言う通りだからだ。彼女には彼女の人生がある。僕をあの場所に連れて行ったのも、彼女の人生の選択の一つでしかないのだから、僕がそれに対して、ああしろこうしろと口出しなどできないのだ。僕は彼女の名前さえ知らない。
「育ててくれた人は?」
「優しい人だったよ」
 養母は神に仕える人だった。だから、僕と似たような者も何人かいた。それは彼女が仕える神とやらがそうするようにと言いつけたからだ。養母は僕らに名を付け、服を着させ、食べ物と寝床と教育を与えた。
「どんな人だったの」
「普通にしている顔が、笑っているみたいな顔をしている人」
 いつも笑っているような人だった。それしか顔を持っていないようだった。誰かがいたずらをしたり、窓を割ったとしても、まずそれをやった人間の方を心配したのだ。割ったガラスが刺さらなかったか、とか、嫌なことがあったら話してほしい、とか。
 特定の日になると、養母は僕たちに話をした。それは彼女の神の話だった。

 その神は言う、人間はすべて平等であるということを。
 その神は言う、人間は本来優しい存在であるということを。
 だから、その神は言う、あなたがたは誰にでも優しくあれと。

「もう、会ってないの、その人とも」
「うん」
 シンプルに言えば、養母の信仰していた神なんていうのはただの幻想でしかなかったのだ。メルキオールが仰向けになって息絶えてから数年して、養母のもとへ食べものを求めてやってきた男は、養母を殺した。彼女が信仰していた神の前で、裸体の彼女は血にまみれて死んでいた。僕はそれを一人で見てしまったのだ。血を浴びて、荒い呼吸で僕を振り返るその男が、僕にはただの獣に見えた。
「あなたは、その強盗を殺したのね」
「そうだよ」
 僕は肩で息をしている男に尋ねた。命は平等じゃないのかと。
 本当は知っていた。メルキオールが死んでから、命は平等なんかじゃないってこと。
 公園の子供たちはメルキオールよりも価値があるって、この世界は言っているんだと。
 その命の価値は、知らない人間に勝手に決められることも。
 でも、僕は疑問だったのだ。
 養母とこの男の命は?
 養母よりもこの男は価値があるのだろうか。
 誰も傷つけてはいけないと教え、与えることを惜しまなかった人。
 僕が唯一「マザー」と呼ぶことを赦した人が。
 男は意味のわからない言葉を怒鳴り続けた。僕は養母の信仰している神の前で、その神が許さない行為を犯した。
 でも、その神は僕の中には存在していなかった。
「仕事以外は、人を殺さないんじゃなかったの」
「まだ、仕事なんかしていなかったから」
「言い訳ね」
「そうかもしれない」
 僕はすっかり認めるしかない。仕事で殺した人間のことなんか、もうどうでもいいのだ。
 僕は報酬をもらって、それで生きている。
 でも、そうじゃないのはこうも蘇ってくるのだ。むせかえるような生臭いにおいも、あのとき、いやに寒かっただとか。

 あの男は、端々にこう語った。こうでもしないと、自分は死んでしまうかもしれないということ。そのために人は誰かを殺すのだろうかと聞くと、この世の中はすべてそうだと男は答えた。戦争でも、近くの殺人事件でも、なんでもいい。人間は簡単に命を踏みにじる。
 その上に自分は生きている。でも、そんなことを覚悟して生きている人間なんかいない。
 家畜を殺して食べていても、僕らは肉を食べて涙をしないし、魚を食べて嘆くこともしない。
 人は人の望むもののために誰かを殺して生きている。俺もそうだ、と男は言った。命なんてそんなものだ。誰もがそんなことを知っている。
 だから僕は、男から刃物を奪い取って男の心臓に突き立てた。僕は養母のもとで生き残っていたのに、男はそれを奪ったからだ。ならば僕は、こいつを踏み潰して生きることを選んだ。
「泣いた? それとも、怒った?」
 お花ちゃんは僕をしっかりと見て尋ねる。
 さっきまでの酔っ払った、ふにゃっとした表情ではなく、いつも夕食で僕と話をするときの彼女の顔だった。まっすぐな目で、僕のことなんか本当はわかりきっているような顔で。
「どちらでもなかったと思う」
 ただ、僕はそうしてもいいんじゃないかと思ったのだ。命は平等です、だから大事になさい。養母の教えがもろく崩れて、この男を手にかけたときに誰が平等不平等の天秤を測るのだろうか。あれだけ大声でわめいた男も、すぐに動かなくなった。口をぱくぱくしていたけれど、言葉を紡ぐことはなかった。僕は倒れている養母の方へ近づいた。彼女の目元は湿っていて、きっと泣いていたのだろう。僕はコートを脱いで、彼女の体にかけてあげた。寒いだろうから。
 ここは風が通りやすくて、室内なのに、外と変わらないくらいに寒いから。
 コートを置いて、僕は忘れていた。養母はもう「寒い」と言うことはないんだと。
「じゃあ……それきり帰っていないんだ」
 帰るという表現が正しいのかはわからないけれど、確かにあれきり訪ねていない。どうなったのかさえも知らない。でも、養母がいなくなってから、あの場所をやりくりする人間なんているとは考えられないから、行ったところで何も残っちゃいないだろう。

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