10.ピアノ

 眠った気がしないから、ブルースの事務所で一眠りしようかと歩き出していた。多分、彼はもう起きているだろうから、そろそろ事務所も開けるだろう。

 案の定、古びた建物のその扉は開いていて、一階に通ると彼はデスクに着いていた。ここに来るのに、特に約束も何も取り付けていない。来たいときに来て、適当に雑務をこなす。時折仕事の関係で日を指定されることもあるけど、大した日数じゃない。
「よう。今日は早いじゃないか」
 ブルースは朝刊から顔を上げた。読み終わったころに僕が来ることが多いから、確かに早いかもしれない。
「今日は客が来る。紅茶の準備でもしておいてくれ」
「もう来る?」
「おそらくな」
 一階の給湯室に向かって、来客用のカップを用意していると、玄関口でブルースが話し始めたのが聞こえた。お客さんとやらが来たようだ。僕がブルースと客の分を用意して、トレイに乗せて持ってくると、そのお客さんはソファに腰掛けて僕に会釈をした。あの、メリアムとかいう婦警だった。今日は制服ではなく、ブラウスとスカート姿だったから、一瞬誰かわからなかった。
「今回は、ジェンキンス氏の捜査で来たのではありません」
 僕は紅茶を彼女の前に出した。部屋を出ていた方がいいか迷って、部屋の隅の方にいた。
「でしょうね。見たところ、今日は非番のようで」
「そうです。ですからこれは、私からの個人的なオファーになります」
 メリアムは写真を提示した。庭先あたりの写真だろうか、植え込みの近くに人が立っている。その視線は庭の先、つまりは建物の方向へ向かっていて、カメラに対して顔を向けているわけでもない。その人物は、大柄な男で、植え込みにこそこそとしているのがかえって不自然なくらいだ。
「ここ三日間のできごとです」
 メリアムは写真を眺めていた僕たちに言う。
「これは、つまりストーカー被害だと?」
 ブルースは写真から顔を上げる。
「お恥ずかしながら。しかし、心当たりはあるのです」
「というと」
「ジェンキンス氏の殺害事件について……あれの本格的な捜査を任されているのは、私なのです。ですので、犯人あるいは共犯者が、私の動向を探っているのではないかと……」
「見覚えのある顔なのですか?」
「写真からは、なんとも……顔を見ようとしているのですが、なかなか」
 メリアムは首を横に振る。
「今はどうしているのです? この男が見ているのがあなたの自宅なら、危険なのでは」
「今は署内の仮眠室を借りているんです」
 なるほど、とブルースは頷いた。
「ストーカーの相談として承ることはできます。しかし、私の事務所でよかったのでしょうか? こちらでは家庭問題などはよく引き受けますが、刑事事件に発展しそうなもの、特にあなたの命に関わることでしたら、もう少し大きい事務所に依頼されてみるのは? 警察ならば、その伝手も多いでしょうに」
「いいえ、あなたにご依頼したいと思ったのです。スクールを首席で合格された方ならば、安心して命を預けられるというものです」
「買いかぶりすぎですね」
 ブルースは一瞬しかめ面を見せるけれども、いつもの営業的な穏やかな口調に戻す。
「正式な手続きをしましょう」
 視線を投げかけられて、僕はわかったとも答えずに書類を引っ張り出す。そこに書かれている項目についてはなかなか理解できないのだけれど、僕にそれは求められていない。

 夕方、ブルースの事務所を出て適当に街をぶらついていると、「アンドリュー!」と僕を呼ぶ声がした。みると、通りにあるパン屋からエヴァンが顔を出してこっちに手を振っていた。そのパン屋から出てきたエヴァンは、紙袋を抱えて、僕の前に立つ。
「今暇?」
 と、軽く聞いてくる。
「うん」
「店に来ない? 新作作ってるんだけど、味見して欲しくて」
「いいの?」
「その代わり、忌憚ない意見を頼むよ」
 エヴァンはウインクをしてみせ、先を歩く。
 僕はちょっと戸惑う。食べるものに関して美味い不味い以外のことは何一つとして言えないのだから。でも、エヴァンはそれでも来てくれと言うし、僕も久しぶりにあの天国に行くのも悪くないなと思ってついていく。

 店自体はまだ開けていないようだ。鍵を開けてから、ドアに準備中の札を下げている。カウンターに腰掛けていた僕は、エヴァンのおしゃべりに相槌を打っていた。店の中、模様替えをしたみたいだ。奥にあったテーブル席がなくなっていて、代わりにピアノが置いてある。小ぶりなやつで、でもなんだか、この店に急に飛び込んできたような、そんな浮いた感じがする。
「知り合いがさ、引越しをするんだけど、これはいらないからって押し付けてきたんだよね。それで、置いてみたんだけど」
 僕がピアノを見ていたのに気がついて、エヴァンはそう教えてくれた。
「弾くの?」
「いや、さっぱりだよ。音大の学生に小遣い稼ぎついでに演ってもらおうかとか思ってるんだけどね、うちに来るのなんか、品のない連中ばかりだし、今悩んでるとこ」
「それなのに、受け取った?」
「あぁ。そうだね。なんだかほうっておけない気分になっちゃってさ。その知り合いのさらにその知り合いの息子さんが、子どものときから使っていたものらしいんだけど。息子さんは大学に行くっていうんで家を出たきりになって。俺の知り合いが引き取って持っていたみたいなんだけど、その知り合いも結構な年でさ、もうちょっとのどかな田舎の小さなログハウスに住むことにしたっていうんでね。なんだかね、人は自分が変わっていくことには結構慣れているけれど、それに置いていかれる方の身になっちゃってさ。物には心も何もないんだけど。でも……息子さんが一生懸命このピアノに向かって練習してたり、親の前で曲を披露したり、そういう団欒を想像したら、そんな思い出をスクラップにさせるのも勿体無い気がしちゃって」
 カウンターの奥にあるキッチンに向かいながら、彼はそう語った。その知り合いという人も、エヴァンがそういう人であることをよく知って、譲る話をもちかけたのかもしれない。
「その息子は取りにこないの」
「戦争に行ったきりだと。ほら、一丁あがり」
 エヴァンは小皿を二つ、カウンターに置いた。クラッカーの上に、チーズとトマトとバジルが乗っているものと、魚の入ったトマト煮。サバだと言っていた。
 僕はこの街の『戦争』のことを、よく知らない。けれど、ずっと前のことで、いろんな人がそれを忘れていることは知っている。だから、あのピアノは、ずっと持ち主を待っているんだ。
「誰かいる? ピアノ弾くような子」
 ついでに感想を聞かれたものだから、僕はやっぱり「おいしいよ」としか返す言葉がなかった。エヴァンはよかったと笑って、それ以上聞いてこなかったけれど、ピアノ、と言われて僕はお花ちゃんを思い出した。夜はバーで演奏しているって言っていた。
「いたら、なんて言えばいいの?」
「その日うちで飲み食いする分は出してあげるよ。そうじゃないならいくらか出す。なんだっていいよ、ジャズでもクラシックでも、雰囲気出してくれそうなものなら大歓迎だけど。置物にさせたく無いってだけだから」

「ってさ」
「いく! 素敵なところなのね、きっと」
 お花ちゃんは弾んだ声で答えた。あの後彼女の家に行って、聞いたのだ。
「ジャズがいいわ、きっと。そうね」
 彼女はリビングで踊るような足取りだった。上機嫌な鼻歌。お花ちゃんは僕に質問攻めをしてきた。どんな店なのか、どんなオーナーなのか、どんな客が来るのか。僕は一つ一つ適切に答えられる自信がなかったから、君の都合のいいときに連れて行ってあげると言った。
 お花ちゃんは、明日の夜にでもエヴァンのところに行きたいと言った。つまり、今夜。
 彼女は黒いワンピースとその上にファーのついたコートを羽織って、揚々と僕の後ろをついてくる。今にも鼻歌でも歌いだしそうだ。
 通りを抜けて、いつもの角にたどり着く。メイドインヘブン、天国がある場所。小さな扉には、オープンの札が下がっている。
「ここね」
 お花ちゃんは顔を輝かせて、背伸びをしながら僕の肩越しに顔を出した。
「いいにおいがする」
 中でエヴァンが何かを作っているのだろう。
 僕は扉を開け、夢見がちな酔っ払い達の喧騒にぶつかる。カウンターに一人立つエヴァンは、僕とお花ちゃんを見るとぱっと表情を変えた。
「来てくれたんだ」
「連れてきたんだよ」
「どうも、はじめまして」
「はじめまして。素敵なお嬢さん」
 お花ちゃんは会釈をし、エヴァンは上機嫌で僕たちを眼の前の席に案内してきた。
「何飲む?」
「なんでも」
「じゃあ、わたしもおまかせするわ」
 困ったなぁと、エヴァンは困っていなさそうな返事をしてみせた。お花ちゃんはその間にも店内を見渡して、うっとりしたように表情を緩ませる。
「素敵なところね」
「そう言ってもらえると嬉しいね。お嬢さんのお名前は」
「マリー。エヴァンでよかったかしら? 彼から聞いたわ」
「君がこんなに可愛らしい子を連れてくるとは思わなかったな」
 エヴァンは僕をからかうような口調だった。
 僕は肩を竦めただけだった。早くグラスが来ないかなとも思った。彼は手元を動かしながらも、彼女と会話を進めていく。
「ピアノは?」
「小さい頃からやっているの。今は音楽教室で。たまにバーでも演奏するわ」
「そうかい。じゃあ、腕前もお墨付きなわけだ。そんな君が、どうしてこの子と?」
「本当にたまたま出会ったの。ね?」
 お花ちゃんは僕に微笑みかける。そうだね、と僕は相槌を打った。本当に、偶然。
「ま、出会いなんて偶然ばかりだろうけれど。はい。お待ちどうさま」
 グラスとナッツの乗った皿が出てきて、僕はグラスを煽る。隣でグラスに口を付けた彼女が、美味しいという感想をエヴァンに述べていた。彼もそれを聞いてとても嬉しそうだった。僕が言ったときよりも嬉しそうだった。
「それで、ピアノのことなんだけれど、あれよね?」
 お花ちゃんは両手でグラスを大事そうに持ったまま、置き去りになっているピアノに視線をやった。近くのテーブル席の男は、自分のスペースが狭くなったことが不満でもあるのか、ちょっとわざとらしく腕を曲げている。
「そう、あれ」
「触ってもいい?」
「お好きにどうぞ」
 エヴァンが言うと、お花ちゃんは一つ頷いてからピアノまで近付いていく。じっくりと、鑑賞物のようにそのピアノをまじまじと眺めながら、椅子の前に移動していく。
「本当にいい子だね」
 エヴァンがそっと言う。そうかな、と僕は適当に返事をした。ピアノに歩み寄った彼女は、蓋を押し上げる。ぽーん、と柔らかい音が店の中に広がる。酔っ払いどもは一瞬自分たちが喚くのを止めて、音のした方を気にした。そこに立っているお花ちゃんを見ると、機嫌良さそうに、大きな声を上げる。
「ねえちゃん、一曲弾いてくれや」
「おい、酔いどれに音がわかるのか?」
 エヴァンがからかうものの、他の客たちは気にした様子もない。お花ちゃんは得意げに頷くと、ピアノの前に腰掛けた。とん、とん、とん。一つ一つの音がやがて、川のように流れていく。そうして彼女は歌い始める。ゆったりとした声で、いつもよりも落ち着いていて、誰かにもたれかかるような声で。
 酔っ払いたちはわずかに首を動かして、彼女の音に乗せられているようだった。エヴァンも、カウンターに寄りかかって、目を細めてその様子を眺めている。最後のピアノの余韻がすーっと店から抜けていくと、ぱらぱらと拍手が起こった。
「おいエヴァン! 嬢ちゃんに一杯、俺から奢ってやる!」
「なら今月のツケを払えって」
 エヴァンは苦笑を浮かべつつも、戻ってきたお花ちゃんには拍手で迎える。
「悪いね、演奏までしてもらって」
「いいのよ、楽しかったわ。お店で演奏したって、こんなにいい拍手はもらったことないから」
 お花ちゃんは戻ってくるなり、グラスを傾ける。
「天国にも届くよ」
 エヴァンはぽつりと言った。お花ちゃんは目をぱちくりさせた。
「届けたい人、いるの?」
「あぁ、いるとも。でも、そいつは聞いていたよ、ばっちりね」
 僕はなんとなくわかった。それが、エヴァンの恋人だってことを。一緒に店を開こうとした人。今は本当の天国に行った彼。
「どんな人?」
 お花ちゃんが聞くと、エヴァンはカウンター奥の棚に置いてある写真立てを持って、僕たちに見せた。彼はいつでも恋人との話をしてくれる。僕にも前にしてくれた。それが、彼にとっての楽しみの一つみたいだった。
 写真の中では、建物の前で、男が二人並んでいる。看板もなかったけれど、場所はこの店だろう。まだ開店する前のものだ。どれほど古いものなのかはわからないけれど、エヴァンは今より髪が短い。その隣にいるのは、彼よりも背が高くて、がっしりした体格の男だった。短く刈り込んだ髪に、太い腕。二人とも肩を組んでにこやかに笑っていた。
「あなたの恋人?」
 お花ちゃんが聞くと、そうだよ、と短く彼は答えた。
「店開くのが決まってすぐのころ」
「今は、天国にいるのね?」
「そう。でも、天国はここにもあるからね」
 そっか、とお花ちゃんは目を細めた。それをとても大事なもののように見つめてから、写真をエヴァンに返した。
「素敵な写真ね」
「ありがとう」
 エヴァンは照れくさそうに微笑んだ。
「いろいろと聞いてもいい?」
「本当は、俺が聞く立場なんだけどね」
「だめ?」
「いいよ。……ずいぶんと小悪魔的な子じゃないか」
 と、またエヴァンは僕に眉を下げて言ってきた。天国に小悪魔が迷い込んできたというジョークなのだろうか。僕は空になったグラスを差し出した。はいはい、とエヴァンはグラスを取って、別のものを作り始める。
「誰かのために死ぬって、愛なのかしら?」
 どこかぼんやりした目で、お花ちゃんはエヴァンに問う。
「君は悲劇が好きなのかい?」
「ううん。私、ハッピーエンドが大好きよ。それもバカみたいに幸せのやつ。でも、ちょっとそんな風に思っただけなの」
 酔っ払いたちが意味のなさない歌を大声で歌い出した。お花ちゃんはそれを聞いて、楽しそうに笑っていた。酔っ払いたちの方を見て、それからエヴァンの方を向いた。
「今日みたいな日で終わる物語がね」
「君がそう思うようになったのは、こいつのせい?」
「ううん。どうして?」
「だとしたら俺は一度こいつに説教を食らわせなきゃって思っただけさ。……ま、それは置いておいて。君のためなら死ねるなんていうのも、口説きの常套句だよな。でも、俺は誰かのために生きることができるほうが、よっぽど愛だと思う」
「誰かのために?」
「そう。例えば……誰かにおはようが言いたいから、夜が明けるのを眠って待つとか。誰かに美味いものを美味いって言わせてやりたいから飯を作ったり、それを上手いって言って食べたり。そういうことさ。その人がこの世からいなくなったとしても、そいつの分まで、そいつがしたかったことを俺が代わりにする。それで、あぁだったとか、これは面白かったって、伝えられるようにしてやる」
 新しいグラスを僕によこしてから、エヴァンは穏やかに人参を切っていた。切った人参を、ボウルに入れていく。僕は手際よく動くその手に感心しながら、話を聞いていた。そうやって、エヴァンは毎日毎日いきている。
 そうして、時折僕たちに彼が大事にしていた人と、その人との思い出を、語ってくれる。
「どうして?」
 お花ちゃんがこくりと首を傾ける。
「生きるってそれだけ大変ってことさ」
 今度はほうれんそう。ざく、ざく、ざく、と音を立てる。どこかのテーブルで馬鹿笑いが木霊した。それを聞いたエヴァンの口元が弧を描く。お花ちゃんはまじまじとグラスを覗き込んでいた。
「生きるって……大変ね」
 それは自分自身に言ったのか、それとも、毎日毎日ボロ雑巾のように働いてようやく手に入れた金で、なんとか孤独をまぎらわせている酔っ払い達に向けた言葉だったのか、僕にはわからない。彼らは安価のアンチエイジング・サプリにもろくに手が出せず、かき集めた金を使うのは、健康で健全な生活じゃなくて、いっときの娯楽のためのギャンブルか酒だ。
 なんにしたって、生きるということは簡単じゃない。生きるということは、それだけで誰かを殺しているのだから。僕は誰かを殺した金で食べている、そうやって生きている。
「ねぇ、もう一杯いただけるかしら」
「お嬢さんためならいくらでも。何がいい?」
「きついのでお願い。生きてるってことが実感するくらいの」
 お花ちゃんがそう言うと、エヴァンは苦笑した。

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