1.プロローグ

 
 命は平等ではない。
 テレビで、新聞で、ラジオで。ありとあらゆる人間の言葉からそのことを教えられる。
 あるいは、実体験で僕はそのことを知っている。

 ある日、僕は政治家という仕事をしている人間の死を、目の当たりにした。
 男の死はニュースで瞬く間に広がった。悲しむ人、あるいはその死が汚職事件の報いだと皮肉る人。まぁ、何を言おうがその人たちの勝手なんだけれど。血まみれになった彼の肉体には、いろんな人が何かを思うわけだ。
 僕はその三日前に、路地で死んでいるホームレスを見つけた。多分凍死だと思う。
 ここのところ、夜から朝にかけては氷点下を記録していたし、彼は薄くてぼろぼろのジャケットを着ていた。ましてや、生きるために必要な栄養価も、サプリも手に入れる金も持っていなかった。
 僕は彼の名前も何も知らなかったし、彼も僕のことを時折小銭を渡すカモくらいにしか思っていなかっただろう。見かけたときには挨拶をしていたけれど、それ以上は話したことはない。
 その日、彼は背中を丸めて眠っていた。眠っているのも死んでいるのも、あんまり変わらないものだなと思う。なんとなく、彼が死んでいるのがわかった。そういう「におい」がしたから。僕はそのまま通りを進み、次の日になると彼の体は誰かに回収されていた。町の美化を気にする人間たちが「掃除」したんだろう。でも、彼はポッドに入って、安らかな眠りにつけることもない。彼は、弾き出されてしまったのだ。毎日ここを通っているうちの誰が、彼の顔を覚えているだろうか。

 命なんてものはそんなものだ。
 大したことじゃない。誰もが知っていることのはず。

『ラブソング』

 かちかちかち、と時計の音は目を閉じていてもはっきりと聞こえてくる。そろそろだろう。
 意識もぼんやりとしていて、事務所のソファで丸まって眠っていると、ブルースが入ってくるなりため息をついた。僕はやつの小言が面倒だったから、背もたれに顔を押し付ける。
 わざとらしく背中を上下させて呼吸を繰り返す。でも、ブルースは僕が眠っていようと起きていようと関係なく文句をこぼす。
「頼むから、シャワーを浴びてから眠ってくれないかとなんども言っているんだが」
 ブルースは潔癖性なのだろうか、いつもそんなことを言う。僕は眠たそうに顔を上げた。

 古めかしい貴族の書斎でもイメージしているのか、この部屋は茶色ばかりで、そして何もかもに秩序が敷かれている。本の並び方は作者の名前順、それから題名順に。カーテンはきっちり折り目がつき、デスクの新聞は綺麗に四つにたたまなければならない。今日も灰色の空が続いているから、窓は十センチだけ開けることになっている。そんなきっちりとした彼のソファに、僕は似つかわしくないのだ。
「けれど、ここがよく眠れるんだよ」
 櫛も通らない髪に指を通そうとして、僕は手を止める。きっとソファは僕になんか座ってほしくなんかないだろうけれど、彼の仕事場は落ち着く。きっと、人間味というものがないから。無機質なにおいで、僕はぐっすり眠ることができる。
「それは光栄だ。だが、君、そんな泥まみれはやめておくれよ。……おい、いったいどういうことだ? なんだってそんなボロの服を着ている? 俺が買ってやった服は?」
「あるよ。着ていないだけで」
 穴は空いて裾がほつれているジーンズ、袖口が破れているぺらぺらのコート。いつもの格好。
 ブルースは大通りから少し外れた、小洒落た個人店で買ったというシャツとベストを着ている。彼が僕にくれたコートも、そういうところで買ったやつだ。十二月の寒空の下で僕がこの事務所を出入りすることが、見るに絶えなかったのだという。
「服は着るためにあるんだ、ベンジャミン!」
 ブルースはちょっと尖った声で言った。ここのソファの寝心地は悪くないのだけど、ブルースの金切り声はちっとも子守唄にはなりゃしない。彼は茶色のふちのメガネのはしっこをつまんで持ち上げる。
「知っているよ」
「ならばせめてシャワー室にでも行ってくれ。タオルなら置いてあるから」
「ありがとう」
 あたたかい風呂はありがたい。僕はのっそりと体を起こした。
「それが終わったら配達に。いいか、君は俺の大事なクライアントに会うんだ。それなりに身綺麗にはしておいてくれ。そのボロのコートは脱いでいけよ! 俺のを貸してやるから」
「うん」
 二階のシャワー室に行こうとすると、背後でため息が聞こえた。

 彼は弁護士だ。そこそこ名の知れた、有能な人間らしい。
 彼は僕のことを、仕事をろくに持っていない穀潰しか何かだと思っている。出会ったのもここ数ヶ月のことで、互いのことを詳しくはあんまり知らない。彼は僕のことを、かわいそうなやつだと、適当な小間使いに出してはなんらかの報酬を提供する。今日の報酬はソファという上質な寝床とシャワー室。それが提供されるのならば、このくらいの使い走りはお安いのだけど、彼は一つだけ大きな誤解をしている。僕は正してやるつもりは決してないけど、僕は穀潰しではない。僕には僕の、仕事を持っている。
 僕の本業は、殺し屋。人の命を扱う、単純な仕事だ。

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