9.赦し

「本屋であいつのカバンに入れた本、あいつはもう持ってたよ」
 サクマもその言葉の意味がわからなかったが、それでもアイウチメグコははっとして顔で彼を見上げた。先ほどのように感情が高ぶっている様子もないので、彼は淡々とモモセの言葉を伝える。
「本屋を出ようとしたとき、防犯ブザーが鳴った。あいつのカバンから本が見つかって、あいつはすんなり認めた。それから……あいつの家に警察が来た。それがばれて、あいつの弟はクラスメイトから犯罪者の弟扱いをされた」
 自分で話していく中で、モモセはこのことを、アイウチメグコだけでなくサクマにも語りかけているような、そんな風に錯覚していた。聞かないのかと言ったとき、本当は聞いて欲しかったのではないかと。そう思うと、胸の奥が痛んだ。
「だから、あいつはもう辞めたくなった。何もかも。せめてあんたに、責任をなすりつけて。これから先ものうのうと生きていくんじゃないかって、そのときはあんたが憎くて憎くてたまらなかったってさ」
「やめて……」
 そしてようやく、アイウチメグコは口を開いた。震える声で、そこには怒りはなく、ただ恐怖していた。それでも隣でモモセは話を続けていた。
「……でも、赦してやりたかったって」
 スーパーに行った帰りにも、モモセはそんなことをつぶやいていた。
 “生きていた証”、サクマはようやく理解した。アイウチメグコは彼女の生きていた証なんかじゃない。彼女が遺したものこそが、彼女が存在していた証だったのだと。だから……彼女はそれを“赦す”ことをしたかった。彼女がこの世に彷徨い続けていたのは、このためだったのだろう。
 モモセの言葉が止まる。アイウチメグコは顔を両手で覆って泣きじゃくっていた。コマキはサクマから一、二歩離れたところで立ち尽くしてた。アイウチメグコのすすり泣く声だけの部屋で、サクマはふと口が固まり、少し開いたままだった。そしてぼんやりしていた意識がだんだんと目の前の人間に追いついてきて、彼はモモセを見遣ってからアイウチメグコを見下ろした。
「……スーパーで、知らないって答えたとき、絶対に覚えてるって思った。忘れたくても忘れられないんだと思ってた」
「なんであんたが、あれのこと知ってるのよ。誰かに言われてるんじゃないでしょうね、あたしを脅そうっていうんじゃないの」
 アイウチメグコはどこか冷静になって彼に言った。すると突然、サクマはいろんなことが馬鹿らしくなってきた。
 幽霊なんて、馬鹿げてる。そんなものを当然のように受け入れて、俺は気が狂ってるんじゃないのか? それでもって、幽霊の言葉を伝言してやって。俺は何をしているんだろう。
「ねぇ、答えてよ! 誰があんたに言ったのよ!」
 問い詰める鋭い声、まるで自分の味方なんて誰もいない気分になった。
 なにもかも終わりにしたい、そう思った金曜日の衝動を思い出してしまった。あれがはじまりだったんだ。
「山羊に教えてもらったんだよ」
 サクマはそれだけ言うと、コマキのことも目もくれず部屋から出た。窒息しそうだった。首の後ろが汗をかいているようだった。シャツがはりついて気分が悪い。階段を早足で降りていくと、途中でアイウチメグコの母親と出くわしたが、会話をする間もなく彼は靴を履いて逃げ出した。暑くなった自転車に乗って、とにかく追われるように走り出した。
「ね、サクマ、サクマってば!」
 赤信号で踏み出そうとしていたのを、モモセの声で我に返った。ハンドルを強く握りしめていたせいか、手のひらがじんじんと痛む。自宅の方まで帰ってきていたが、結局家に戻るのか祖父母の店にいくか決めていなかった。
「家に帰っても、誰もいないんでしょ。それだったら、お店に行ったら? その、顔色悪いから……」
 モモセの言葉に何も答えず、サクマは店に向かってペダルを漕いだ。足が重たい。店にたどり着いたときに、祖母が店先でバケツの水を換えようとしていた。サクマは自転車を停めて、祖母の前に立った。祖母は彼に気がつくとにこりと微笑みかけたが、すぐにその笑顔は消えた。
「どうしたの……具合悪そうよ」
「手伝う」
「やめなさい、そういうときは。休んで。いい? 奥で寝転んで」
 サクマは顔を押さえて何度かこくこくと頷き、重い足取りで店の奥に入った。畳の部屋は障子も開け放たれていて、コウメが庭でおとなしく伏せをしていた。サクマは座布団を枕にして、適当に寝転んだ。頭が痛くなって、それから眠気も襲ってきた。目を瞑ると、そのまますぐに落ちていけそうだった。
「大丈夫?」
 モモセの柔らかい声。
「……吐きそう」
「畳じゃまずいよ」
 ふと薄眼を開けると、モモセは彼の目の前に横座りをしていて、サクマの顔を上から覗き込むようにしていた。透き通った指先が、彼の髪に触れるような仕草をしている。適当に投げ出した自分の腕をわずかに動かすものの、サクマはその手を煙のようにすり抜けるだけだ。それを見たモモセはくすぐったそうに微笑んだ。
「ありがとね、サクマ」
 わたしのために、ありがとう。モモセはそう付け加えた。サクマはもう一度目を閉じて、さきほどまでのことを思い出していた。埃っぽく、じとっとした臭いを思い出すとそれだけでも息が詰まりそうだ。そのまま窒息して、自分が周りからじわじわと消えていければいいのになどという考えがふつふつと湧き上がる。
「……誰かのためなんて、まっぴらだ」
 ぼそぼそと彼は唇を動かした。
「でも、自分のためでもあるんでしょう? 約束、したよね。あたしに協力してくれたから、サクマの手伝いもするよ。あたしのお願いはもう聞いてもらえたし」
 生きていた証。彼は再びモモセとの約束を思い出す。彼女は自分の生きていた証が欲しかった。それを確認したかった。その手がかりがアイウチメグコという彼女のかつての親友。けれども、彼女がそこに抱いていたのは彼女に対する美しい友情なんていうものではなかった。成人し、そして彼女のことを忘れて生きているかつての友に背負わせた罪の意識を呼び起こすような、ある意味呪いめいたものだった。モモセはアイウチメグコを赦すことで、再び自分の生きていたことをこの世に想起させた。
 寒気がする。サクマは身を縮めた。
「赦したつもりなの?」
「……はなからそんなに恨んでなんかいないの。誰かのせいにしてやりたかったのかもしれない。あたしには居場所がない、それを奪ったのは誰かって言ったら、メグコが思い浮かんだの。メグコがあたしのカバンにものを入れて、万引きの疑いを被せてからは、家族にも迷惑かけたし。弟だって……」
 モモセは淡々と話していた。サクマは眠気が襲ってきたことをまた自覚して、眠ってもいいか小声で聞いた。するとモモセはくすっと笑っておやすみなさいと囁いて、触れることもできない、彼の少し伸びた前髪を払う仕草をしてみせた。

 サクマのうんざりするような金曜日がまたやってきてしまった。その日、母は仕事場の例の同僚と食事会に行くという。一緒に行かないかと再び母に持ちかけられたが、サクマは感情的にならないように慎重になって答えた。このときの彼は、自分が仙人か何かにでもなったつもりで、自分自身を諭すようなふりをしていた。先日の棘のある言い合いはなく、母もすんなりと彼の言い分を聞き入れて仕事に出かけた。
 モモセはアイウチメグコの家に行ってからというものの、最初に出会ったときのように呑気に彼の周りをうろついている。時折母がつけっぱなしにしていたテレビを見てはけらけらと笑い、そこで見た流行りのギャグなどをサクマに披露しては呆れられていた。アイウチメグコ関連で見せる、鬱蒼とした暗い雰囲気は無く、ただ彼に「それで、どんなお願い事なの?」としつこく聞いてくる。
 願い事というのは、サクマがモモセのいうことを聞くかわりに、モモセもサクマに対して何か協力をするということだ。しかし、サクマは未だにモモセに詳細を何一つ話していなかった。モモセが自分の目的を果たした今、彼女がここにとどまっているのはサクマとの約束があるからだろう。サクマとの約束が終われば、きっと彼女は消える。それは自然なことであるが、しかしどこか後味が悪そうだとサクマは頭の片隅で思っていた。
「ママと仕事場の人、デートに行くんだよね?」
 自宅の洗面所で歯を磨いているときにモモセは誰もいないというのに、ひそひそ声で聞いた。そうだよ、と表情一つ変えず彼は答える。さっきお前も聞いてただろう、という顔だ。
「ね、気にならないの?」
「なにが」
 口をゆすいでから彼は聞き返す。正面を向くものの、鏡にはモモセの姿は映らない。
「もしかしたら、あなたのパパになるのかもしれないよ」
「別に……」
 彼は洗面所を出て、部屋のリュックを取った。今日は祖父母の家に泊まっていくつもりだから、着替えも入っているためいつもより膨らんでいる。祖父母たちは食事中にテレビをつけたりはしないから、今日はあのドキュメンタリーを見なくて済むんだなと思うと彼はなぜだかほっとした。
「家族が増えるって重大事件だよ」
 モモセはまだその話をしている。サクマはうんざりしていた。そして振り返って、言葉を強める。
「付き合うかとか、結婚するだとか、そんなのは母親が決めることだろ。あの人にはあの人の人生があるんだから、それを俺がどうのって言う権利ある? 結局、あの人は自分のしたいようにしていくんだから。父親がそんなに大事か? それが俺の人生にそんなに重要か? 俺には今までいなかったっていうのに? だったら俺の今までなんだっていうだよ!」
 一気にまくしたてたせいで息切れしそうだったが、モモセはそんな彼を呆然として見ていた。同情しているような視線をぶつけられているような気分になり、サクマはもっと自分が嫌になっていた。これじゃ、アイウチメグコと自分が同じくらい哀れな存在になっている。サクマは髪を掻きむしって盛大なため息をついた。
「そこまで言ってないよ、サクマ。ちょっと深呼吸して。座ろう、ね? おじいちゃんたちも少し待ってくれるから。気が立ってたら上手に笑えないよ」
 モモセは諭すように机を叩くそぶりを見せた。サクマは立ったままだった。
「ごめんね、あたし、君の気持ちをまるっきりわかってあげることはできないんだよね。あたしの家にはママとパパが当たり前のようにいたから……。でも、ちょっとさ……聞きたいんだけど、それ、あなたの本当の言葉なのかなって」
「何が言いたいんだよ」
「……自分のママに言われたこと、自分で無理やり押し込んでないかなって」
 それを言われた瞬間、サクマは胸の奥が締め付けられた。必死に頭を振って、彼は振り落とそうとする。それは彼の記憶とかつての母の声だ。「子持ちのなにがいけないのよ!」という母の酔っ払って泣きじゃくる姿。そのとき、自分の存在を否定された感覚。不幸な人だなと思ったこと。その不幸の要因は俺にあるということ。
「パパに会いたいって思ったこと、ないの?」
 モモセが核心をついた。胸の締め付けはずきりと刺すような痛みに変わった。
「えっと……もし会えなくてもってことよ? あなたのパパがどうしていないかとか、あたしはわからないし……」
「俺に父親はいない」
 きっぱりと言うことでサクマは自分の痛みを切り離そうとしていた。自分を支えている足が不安定になり、机に体をもたれかけさせた。
 父親がいない子どもはありえないだろう。父親と母親の遺伝子情報が彼には入っていて、それが自分を形成していることくらい、小学生から理解している。それでも彼は自分に父親はいないと言い聞かせなければならなかった。たとえ自分の記憶に、かつての遊園地で手を引いてくれた優しい手のひらを思い出すことがあったとしても。自分のアイデンティティに家族というカテゴリを組み込むことは幼い頃に失敗しているのだ。
「今時、片親なんてうんざりするくらい居る」
 彼はまた自分に言い聞かせるように呟いた。離婚率だって高いし、テレビじゃ苦悩して立派な子どもを育てたシングルペアレントのドキュメンタリーは茶飯事。お前の葛藤なんてごくありふれていて、ちっぽけなものだと見せつけるようなもので溢れかえっている。
「そうかもしれないけど、あなたにとっては重大な話じゃないの」
 モモセはベッドに腰掛けて彼を見上げる。その目は“生き生き”としていて、彼の手を引きずり出してやろうという熱が宿っていた。
「あなたがドキュメンタリー番組を嫌いなのって、自分よりかわいそうな人間が出てきて、それをあなたのママがかわいそうかわいそうって言うからじゃないの? 本当にかわいそうなのはあなたの目の前にいるのに、どうして気付いてくれないんだろうって。自分が不安で何もかも嫌になってるのに、ママは呑気に自分には全く関係のない人に心を寄せて、そしたらいつの間にか山羊になっちゃった。……でも、ママにはママの人生だからって、あなたそれで無理に納得しようとしてる」 
 モモセは早口で、それでもって力強く訴えた。サクマは彼女から視線を逸らした。リュックがさっきよりも重たくなっていた。
「それで、サクマはあたしに何を協力して欲しかったの?」
 モモセは再び尋ねた。今までのように好奇心や興味で聞いているような口調ではなく、幼い子どもを諭すように語りかけた。サクマは視線をそらして窓越しに青々としている空を憎らしげに睨んでいたが、ふとモモセに視線を落とした。
「……行きたい場所がある」
 彼は初めてそこで、協力してほしいことを口にした。モモセはにこりと微笑んで頷いた。そして突然、彼の携帯が鳴った。祖母からだった。言っておいた時間になってもなかなか来ないので、心配になったという。
「おじいちゃんに迎え来てもらおうか? 外、結構暑いみたいだから」
「大丈夫。泊まりの準備が手間取ってて、遅れてごめん」
 電話越しに祖母はそう、と相槌を打った。すぐに行くからね、と付け加えると気をつけてねと優しい声が返ってくる。
「話は後。店行かなきゃ」
 リュックを背負い直して、彼は自転車の鍵を片手に家を出た。モモセはその表情が少し晴れているのを見るとほっとして彼の後に続いた。自転車の荷台に腰掛け、彼の抱えているリュックに手をかけて、つかまる仕草をしてみせたがサクマは振り返らずにペダルを漕ぎ続けた。

続く