8.声

 モモセは店に着くなり、コウメにちょっかいを出していた。コウメがモモセを認識しているのかはわからないが、サクマたちに対してずっと尻尾を振り続けているので、サクマも彼女のふわふわとした毛を何度か撫でてやった。
「今日も悪いわね」
「いいよ。働かざるもの、食うべからずっていうでしょ」
 店の奥でサクマは祖母と並びながらそんな会話をする。届いた花たちを店先に出すためにそれぞれ並べたりしていた。そんなことないわよ、と祖母は微笑む。
「高校生になって最初の夏休みだから、もっと遊んだっていいのよ。学生のうちじゃないと、好きに遊べないんだから」
「いいんだ。俺には、こうやってゆっくり過ごしてた方が、合ってる」
「そう……もしどこか行きたいところがあれば、言ってね。おじいちゃんに連れていってもらって。本屋さんでも」
「そうする。ありがとう。でも、お腹すいちゃったから、後でがいいかな」
「あら、もうそんな時間? 何にしましょうか……」
 なぜだか、時間の流れが穏やかに感じられる。同じ町に住んでいるはずなのに、この場所は空気がいくらか澄んでいるように思えた。すんなりと呼吸ができる。水で濡れた手をエプロンでささっと拭いた祖母はお昼にしましょうとサクマを呼んだ。店先の花を眺めたり、道行く人たちを眺めていたモモセがそれについていく。車の音がして、祖父が帰ってきたのがわかった。三人でまたいつものように昼食を食べる。
「夏休みの給料分として何か買ってやろうか」
 と、祖父が言い出した。サクマは「いいよ」と断るものの、せっかくだから何か言ってみろと言われる。毎年何かしら受け取っているのだが、だいたいは図書カードといったもので、ここ最近の大きなものとしては交通手段としても重宝している自転車くらいだ。サクマは少し考えてから、コウメと庭で遊んでいるモモセを見遣った。祖父母にしてみればコウメを見たように思えただろう。
「ラジオ……とか」
「ラジオ? ずいぶんと渋いものを頼むわね」
 祖母が意外そうにしてからふと微笑む。サクマも言ってからどこか恥ずかしそうに、そうかなと首をかしげた。
「ラジオならうちにも使ってないのがあるぞ」
「あぁ……うん。できれば持ち運べるやつがいいんだけど。家でもこっちでも聞きたいし」
「古いけど、それならあるんじゃないか。ちょっと見てきてやろうか」
「ちょっと、せっかくヒイが欲しいって言ったんだから、新しいのを買ってやればいいじゃない」
 祖父が言い出したのを、祖母が不満そうにしていたのだが、サクマは慌ててなだめた。
「あるならそれがいいよ。あとで見せて」
「そうだそれがいい。それで他に給料分のものをくれてやったほうがいいだろう」

 昼食後、祖父とサクマは二人で物置部屋に向かった。家の隅にずっと閉じたままの場所で、サクマもあまり足を踏み入れたことがない。祖母はいつも「片付けようにも片付かない場所なのよ」と困ったように話しているが、祖父はというと「要るか要らないか迷ったときに置いておく場所」と認識しているので、ここは当分片付くことはないだろうなとサクマは内心思っていた。引き戸を開けると、埃っぽい空気が息を吐いたようだった。熱が籠っていたのか、むわりとしている。どこかカビ臭くもあり、サクマは祖父の後ろでしかめ面をした。
「たしか……このあたりに」
 構わず祖父はあたりにあった棚の物をひっくり返しながら、ラジオを探し始める。サクマは視線を泳がせる。あまり見たことのない、古ぼけたものばかりだ。モモセがサクマの隣に立つと、秘密基地のようだと呟く。
「あぁ……あったあった、これだ。動くかな」
 埃をかぶっていたようだったが、祖父が懸命に払い落とす。電池が入っているかどうか確認しようと裏側の蓋を開けようとしたものの、ドライバーが必要だった。とりあえず持って戻ろうとサクマに言った後、棚に立てかけていたものが崩れて足元に落ちた。板状になっているもので、ばさっと音がした。
「大丈夫?」
 サクマも一歩引く。祖父は落としたものを拾い上げるものの、慌てた様子で奥底に押し込んだ。
「アルバム?」
「見なくていい」
 祖父はぶっきらぼうに答え、戻ろうと足早に物置を出た。サクマも深くは問わずに、祖父についていった。
「気にならないの?」
 モモセは押し込まれたアルバムを振り返る。サクマは静かに首を横に振った。見られたくないということは、きっとサクマも見ないほうがいいものなのだろう。それを見て、彼も傷付きたくはなかった。
 戻ると洗い物をしていた祖母が、「あった?」と聞いてきたので、あったよとサクマは答えた。祖父がラジオを持ったままドライバーを探しに行く。手持ち無沙汰になった気がしたので、サクマは祖母の隣に立って洗い物を手伝った。
「今度さ、母さんが食事会だから……こっちに泊まってもいい?」
 サクマはそう言いながら、母に言ったことを思い出して苦々しい感情が湧き上がってくるのを感じる。
「あら、いいわよ。いつ?」
「わかんない……から、わかったらまた言う」
「そう。その日はヒイが好きなものにしましょうね。何がいいかしら?」
「なんでもいいよ。ばぁちゃんの料理、美味しいから」
「上手ねぇ、ヒイは。わがまま言ってもいいのよ。あなたってば、小さい頃から駄々こねたりしないものね」
 サクマは小さく微笑んでみせただけだった。すると祖母はじっと彼の目を見る。サクマは目をじっと見られるのがあまり好きではなかった。見透かされているような気分になるのだ。彼は諦めをつけたように、肩を竦める。
「母さん、再婚するかな」
 すると祖母は目を見開いた。
「あの子、あなたにそう言ったの?」
 どこか母を責めるような口調だったので、サクマそうじゃないとやんわりと答える。
「母さんのことを気にしている人がいるみたいなんだ」
「ヒイは会った?」
「会ってないよ」
「だって、あなたのお父さんになるかもしれないのよ」
「……俺に父さんはいないよ」
「ヒイ」
「ごめん、こんな暗いこと、言うつもりじゃなかったんだ」
 サクマは本心から謝罪し、濡れた手を布巾で拭き取ってから祖父の様子を見てくるとその場を後にした。台所を出て、祖父の部屋に向かう廊下で一瞬立ち止まるとモモセが眉を下げて顔を覗き込んできた。
「顔色悪いよ」
「お前に言われたくない」
 モモセはそうだね、とくすっと笑う。
「パパのこと、後でまた聞かせてよ」
 サクマは目を閉じて深くため息をついた。無性に大声で叫びたくなった。なにもかも投げ出して、何もかも消し去りたくなった。胸が締め付けられるような苦しさがやってきて、シャツをぎゅっと掴む。ここは屋上じゃない。そう言い聞かせて彼は目を開ける。モモセが「平気?」と声をかけてくる。全然、平気なんかじゃない。
「ダメかも」
 サクマは早口で言うと、そのまま祖父の部屋に向かった。ラジオは使えるとのことだった。

 夜になって、サクマは祖父から受け取ったラジオを小さくつけた。ノイズが少し混じっているが、むしろ眠るには心地よかった。今日は違うパーソナリテイが担当していて、オープニングで最近流行っているらしい歌が流れていた。
「ねぇ、携帯、鳴ってるよ」
 机の上で鳴り続けている携帯に、モモセが耐えかねたように言った。すでに寝転んでいたサクマは煩わしそうに背中を向ける。
「出なよ」
「嫌だ」
「コマキって書いてあるよ。ずっと電話かかってきてるじゃん。こんな夜にまでかけてくるのって、おかしいよ。何かあったのかも」
「……」
 サクマは身体をひねってモモセを睨みつけたが、少しして重々しく身体を起こした。机に置きっぱなしの携帯はちかちかと光っている。モモセが目で急かしてくるので、サクマは仕方無しに耳に当てた。
「なんで出ないんだよ!」
 いきなり飛び込んできたのは、コマキの怒号だった。サクマは鬱陶しそうに耳から携帯をわずかに離した。
「……なに?」
「俺何回も電話しただろ?」
「だから、用件はなんだよ!」
 苛立ったサクマは怒鳴り返すと、コマキの声が止んだ。気まずいなと思いながらも待っていると、コマキは静かな声で言った。
「スーパーで、なにか話してた?」
「は?」
「メグコさんと」
 見てたのか、とサクマは面倒臭そうに頭を掻いた。だが、どうしてコマキがアイウチメグコを知っている?
「あのへんの人たちって昔から顔見知りなのが多いんだよ。アイウチさんもその一人。結婚してるけど、苗字は変わってなんだけどさ……」
「だから、それがなに?」
「知り合いなの? あの人……この間からヘンになっちまって」
「は?」
「なぁ、明日空いてるなら直接話さないか?」
 サクマは横目でモモセを見遣った。会話を聞き取っていたのか、こわばった表情を浮かべていた。だからといってサクマに頷けと促しているようでもなさそうだったが、サクマは深呼吸をした。
「わかった。明日の昼ごろ……駅前でいい?」
「おう。遅くにごめん。じゃ」
 電話が切れてから、サクマはモモセを見た。神妙な顔つきをしていたが、彼女は何度か瞬きをしてみただけだった。
「会うの?」
「知りたいんだろ」
 サクマは携帯を充電器に差し込んでから、もう一度ベッドに向かった。嫌な予感がしていた。だが、どこかで行ったほうがいい、行かなければならないという思いもあった。
「ずっと気になってたんだけどさ……どうしておじいちゃんとおばあちゃんはあなたのことヒイって呼ぶの?」
 モモセが思い出したかのように聞いた。サクマは寝たふりをしてしまおうかと目を瞑ったままでいた。モモセのため息が聞こえたものの、それ以上は聞いてこようとはしてこなかったので、彼もいつのまにか眠っていた。

 約束通り、モモセを連れてサクマは駅前に立っていた。日差しは強く、自転車の座席が熱くならないように改札口に上がる手前の木陰に停めていた。夏休み中のせいか、学生や家族連れが目立つ。
 コマキが来たのはサクマが駅に着いてすぐだった。キャラクターをプリントしたシャツを着ていて、サクマを見つけるとにこりと笑った。何度も電話に出なかったことに、もう怒っていないのだろうかと彼も挨拶がぎこちなくなる。
「どっか行こう。暑いし」
「わかった」
 二人で近くにあったファストフード店に向かう。学生たちの格好の溜まり場だ。飲み物だけを注文して、ふたりは空いていた窓際の席に向かい合った。
「それで……なんだっけ」
「メグコさん、俺たちがスーパーで会った日から出勤していないらしくて」
 コマキはコーラを飲みながらそう切り出した。
「俺の父さんと、アイウチ……メグコさんの旦那さんが知り合いで……挨拶するくらいの仲なんだけど。あのスーパー、よく使うからさ、メグコさんいないの珍しいなって思って。それで父さんから聞いたら、このあいだから外に出られなくなったって」
「その話が俺と何の関係が?」
「お前、なに話してたんだ? 外から見てたけど……お前が何か言ったときに、メグコさん……見たことないくらい、顔真っ青になってたから」
 コマキはアイウチメグコを心配しているようだった。だが、サクマにしてみれば、モモセに頼まれたことをやったまでであって、それを責められているような気がして良い気分にはなれなかった。
「俺のせいだって?」
「そうじゃなくて、何か手がかりが欲しいんだよ。旦那さんもお母さんも滅入ってるみたいだし」
「手がかり……か」
 モモセが見えたら手っ取り早いんだろうけどな、と隣に腰掛けているモモセは遠くで談笑している子連れの母親たちをじっと見ていて、サクマの視線に気付くと「なに?」と言った。
「サクマ?」
 ずっと視線をそらしていたので、コマキが声をかける。サクマはアイスティーを飲み干して、「わかった」と答えた。
「協力して」
「え?」
「あてが、ないわけじゃない」
「じゃあ……」
「でも、話したことまでは言えない」
「……わかった。行こう」
「今から?」
 さすがに行動力の早さに驚いたが、コマキは「思い立ったらなんとやらって言うだろ」と言いながら、空になった紙コップを捨てた。サクマも重い腰を上げて彼についていくことにした。
「どうしてそこまでして手がかりが欲しい?」
 外に出てからサクマはコマキに尋ねた。自転車にまたがったコマキは彼を見て目をぱちくりさせたが、どうしてかな、と彼自身頰を掻いた。
「なんとなく……かな」
 理由もないのに、どうしてこいつは動けるのだろうか。サクマはそれが不思議だったが、コマキが急かすのでそれ以上追求することはやめた。

 またこの家に来るとは。
 サクマはアイウチの家を見上げ、コマキがインターフォンの前で何かを会話をしているのを待っていた。アイウチメグコの母親と会話をしているようだ。きさくな調子で話している。
「メグコさんとお話したいんだけど……今日は友達も連れてきたんだ。いいかな?」
 インターフォンではごそごそと話し声が漏れている。一歩下がっているサクマにはよく聞こえなかったが、コマキが明るく「ありがとう」と答えて振り返ったので、おそらく大丈夫なのだろう。
 少ししてアイウチメグコの母親が出てきた。サクマがこの家を訪ねたときにも出てきた人物だ。彼女はサクマを見て、「あら?」という顔をしたが、サクマは初対面のふりをした。
「ごめんなさいねぇ、このあいだも来てもらっちゃって。今は起きてるから、ちょっと話をしてやってね」
「こちらこそ、急に押しかけてすみません。お邪魔します」
 サクマもお邪魔しますと会釈をし、家に上がった。コマキは何度もきたことがあるのか、さっさと部屋の前に立ってノックをした。
「メグコさん、俺だけど、コマキ。入っていい? 友達もいるんだけど」
 返事はなかった。モモセの方をふとサクマは見やる。彼女はじっと目をつむっていた。何を考えているのだろう。
 部屋から返事はなかったものの、コマキは思い切って扉を開けた。部屋はカーテンを閉め切っていて、どこか埃っぽいような、じめっとしたような重たさがあった。冷房もついていないのか暑い。衣服が床にも散らばっていて、ベッドの上には薄手の布団がこんもりと盛り上がっていた。じっと見ているとかすかに上下していることがわかり、その下にアイウチメグコが閉じこもっているのだということがわかった。
「メグコさん、こんにちは。暑くない?」
 布団がかさっと音を立てて動き、隙間からアイウチメグコの顔が出てきた。ついこの間スーパーで見かけた、強気な目は精気を失っていて、隈が濃い。だが、それを見てもサクマはかわいそうだとかの憐れみを何一つも持てなかった。その本人と目が合った瞬間、アイウチメグコはあからさまに怯えた表情を浮かべた。
「……帰って」
「でもさ、体にも悪いよ」
 コマキが気を遣ったことを言うが、その瞬間、彼女は近くにあったティッシュの箱を二人に向かって投げつけた。箱は二人の間を通って、壁にぶつかって落ちた。
「帰ってよ! 私が何したって言うのよ!」
「ちょっと、落ち着いて……」
「私は何も悪くない……! 悪くないんだってば!」
 コマキがなだめようとしたが、アイウチメグコはとり憑かれたようにわめきだした。サクマはその金切り声に眉をしかめた。そして同時に、これはモモセのことだろうとわかった。
 結局、言った俺が悪いのかよ。舌打ちをしたくなる衝動を抑えて彼は深く息を吸い込んだ。モモセにどうする、と投げかけようとしたとき、彼女はアイウチメグコを可哀想なものを見る目を向けていた。
「自分は生きていけてるくせに……」
 ぽつりと呟いたモモセの言葉、それをサクマは同じように口にしていた。コマキが目を見開いてサクマを振り返る。それはモモセも同じで、まさか彼が自分の口にしたことをアイウチメグコに言うとは思っていなかったらしく、彼がモモセを見ると「やめてよ」と鋭く言った。だが、サクマはなぜか退かなかった。コマキも、アイウチメグコも見ることができないモモセを、誰もが認識していると思い込んでいるかのような、そんな具合だった。
「どうせ死んでるんだ。何言ったって怖いものなしだろ」
 そう言ったサクマに、モモセはにやりと笑った。
 アイウチメグコは背筋に寒気が走ったのを感じていた。
 彼の言葉は、自分に向けられたもののように聞こえるが、全く別の人間に言っているようにも思えたからだ。
 モモセは息を深く吸い込んだ。そして、アイウチメグコの近くへと寄り、彼女を見下ろした。サクマも、肺に空気を入れる。もしかしたら、俺はもうこのあたりには来られなくんあるだろうな、などと頭の片隅で思いながら。そして、こんなの俺らしくないのかもしれないと自嘲して。
「あたし、あなたのことが大嫌いよ」
「あいつは、お前のことが大嫌いだ」
 サクマは彼女の言葉をアイウチメグコに伝える。コマキが戸惑っていたが、アイウチメグコが食い入るようにサクマを見つめていたために思わず動きが止まった。

「だけど、一番大好きな友達だった」

続く