7.白山羊

 結局帰ってきたときには、肩のあたりまですっかり雨で濡れてしまっていた。居心地が悪そうにサクマはシャツの袖で顔を拭う。母が帰っていなかったのは彼にとっては幸運だった。掃除をなるべくしたくない母は、サクマが汚れて帰ってくるのをひどく嫌がる。彼は部屋に戻ると着替えて、洗濯機に着替えを投げ入れた。
「……で、いつまでそうしてるつもり」
 洗濯機の前に座り込んだサクマは、ドラム式でぐるぐると回るシャツに向かって呟いた。
 彼の隣で立ち尽くしているモモセは、気難しい表情で居続けている。
「なぁ」
「あたし、死んでも居場所がないのね」
 サクマの言葉を遮り、モモセは冷たく言った。東屋からずっとこの調子だ。サクマも苛立ちとやるせなさで頭を掻く。
「俺だってねえよ、そんなもん」
 つい、ぽろっとこぼれ落ちた言葉だった。
 帰る家はある。行ける場所はある。学校もある。でも、モモセが言いたい居場所は、そんなただあるだけのものではないとわかっていた。帰る家があっても、自分が要るようには思えない場所……特に金曜の夜は。自分が居なくても何も問題もなく続く学校。どこにいても、いなくとも、同じ。
「飛び降りようとしたの、そのせい?」
 モモセが初めて、会った時の日のことに触れた。サクマはあぐらをかいて座っていたが、居心地が悪そうに体育座りへと体勢を変えた。口は固く閉じていたが、沈黙が押し寄せてくるとついにかすかに開いた。
「嫌になったんだよ」
 ふぅーっと長く息を吐き出す。着替えたシャツの袖で自分の顔を擦り、自分の顔を消そうとしているようだ。モモセは隣に腰掛けて耳を傾ける。
「夏休みに高校生は何をしてる? ……部活に気合を入れて、バイトをこっそりやって、誰かとなしゃぎながらどこかに行って……キャンプファイヤーとか、花火をやったりとかして」
「そういうことがやりたいの?」
「いや、まったくその逆。本当に疲れるんだ。何が嫌だって、それが望ましい姿だって言われているってことだよ。やりたきゃやっていればいい。ただ、それをしていない人間をひどく惨めにさせるような、望ましい姿を作り上げているってことに嫌気がさす」
 そう言いながらサクマの脳裏に浮かび上がっていたのは、彼にとっては悪夢のような金曜のテレビ番組。「優しいこと」が望ましいこと、誰かのために自分を犠牲にすることができる、そんな人間がこの世では価値のある人間。それに賛同できない自分、そんな感動話に心が揺れない自分。俺がこの世に居られる隙間なんてありはしない。それがどんなに息苦しくて、砂の中に埋もれていくような感覚。サクマの言葉が途切れると、今度はモモセが考え込んだような気難しい表情をしてから、こめかみに手を当てて、ゆっくりと言葉を選んだ。はちきれそうなほどに膨れた風船に、いかに割れないように針を突き立てることができるのか悩んでいるようだった。だが、針を決めたらしくモモセは額を掻いた。
「きっと、怖いんだよ」
「怖い? 俺が?」
 サクマはとげとげしく聞き返した。モモセは首をひねる。
「怒らないでね……あたし、きみのことなんかほんの数日しか知らないのよ。だからってきみに説教しようとしているんじゃないの。あたしにはそんな資格ないって自覚してる。でもね、きみのその……なんていうのかな、ちょっと不安定な感じ、なんとなく知っている気がする。あたしだったら、それは怖いって言うわ。誰彼とも同じにならなきゃいけないって思わされているのが」
 サクマは頭をがしがしと掻いただけで押し黙っている。モモセは攻撃しないように、かといって柔らかい砂で潰してしまわないようにゆっくりと言葉を吐き出した。
「人と同じになるってことほど怖いことってないよ。みんなと同じようにサマーキャンプに行ったり、海外留学の夢を饒舌に語ろうとするのも、それこそおんなじファッションをすることも、怖い。私はメグコと同じになることが怖かった。あたしはメグコになるし、メグコはあたしになる。逆に言えばさ、どちらがどっちでも正直問題にはならないってこと! あたしたちは……いや、もうあたしにはあてはまらないだろうけれど……サクマ、君には、その恐怖がまとわりついてる。はっきり言うと、あたしも随分落ち込んじゃったけれど、あなたもスーパーに行ってからだいぶ顔色が悪いの、自分で気が付いてる?」
 サクマは知らなかった、と首を横に振った。それにしても先ほどまで幽霊“然”としていたくせに、今度はよく喋るなとサクマは回る洗濯物を見つめながらぼんやり思う。少し会話に「空き」が出てきたら言ってやろうと、サクマは言葉を口の中に含めておいた。
「だからその恐怖ってやつを取り除くにはさ、誰かとおんなじにならなきゃいけないんだよ。サクマが言っているような望ましい姿ってやつかもしれない。そういう人たちがこぞってわらわらといる場所が……居場所なんじゃないかな。あたしたち、そこには居られないんだよ。だから、どっちかしかできない。同じになって居場所を分け与えてもらうか、それとも一人で立ち尽くしていくか。……あたしは、後者を選んだのかもしれない。……うん、だんだん納得してきた。あたしたちはヤギ、みんなはヒツジ」
「ヤギ?」
「ヒツジはめぇめぇ鳴いて、群れでわんさか動くでしょう? ヤギにも仲間はいるけれど、みんな結構自立してるのよ。知ってる? 昔、家族で牧場に行ったことがあるの」
 モモセは自慢げに話してから、奇妙な声を上げた。彼女の声から出てたとは思えないような、不気味な生き物の声だった。なんだよそれ、とサクマは小さく笑った。ヤギの真似だと言われたが、実物を聞いた事がなかったから下手とも上手いとも答えられなかった。一気に肩の力が抜けたような気がして、サクマは長い溜息を吐いた。
「俺は臆病かな」
「あなた、人の言葉をネガティブに取るくせでもあるんじゃない?」
「急によく喋るようになったな」
「あたし、結構おしゃべりだよ。話すとね、心がオープンになる感じがする。いいでしょ?もうあなたくらいしか相手がいないんだからさ。それに、散々振り回したって言うくらいだから、もう少し付き合ってもらっても」
 はいはい、とサクマは自分の膝の上で組んでいた手をひらひらとさせた。モモセはにこりと笑みを浮かべると足を伸ばして、一度天井を見上げてから視線を洗濯機まで落とした。伸ばした足先が透けて洗濯機にまで入り込んでいたことに眉を下げる。
「臆病結構じゃない。それだけ想像できてるってことだよ」
 サクマは肩を竦めた。破裂させずに風船に針を立てることに成功した、とモモセは実感して内心ほっとしていた。しばらく互いに口を閉ざしていた。サクマは眠気が押し寄せてくる気がして、目を瞑る。眠りに落ちるという言葉があるが、それはまさにその通りだと思っていた。どこか暗いところへ落ちていく、そこまでは自分の意識がかすかに存在しているが、落ちる瞬間までは捕らえられていない。今はまだ自分の意識もはっきりあるし、洗濯機の音も聞こえる。瞼の裏が真っ暗になると、そろそろ眠れるんだろうなとほっとする。だが同時に自分しかいないという途方のなさも感じることがある。
 モモセが遠くで鼻歌を歌っている。聞いていると、「郵便屋さん」のメロディーだった。仕方がないからお手紙書いた……さっきのお手紙……ご用事なぁに……。サクマは頭を壁にもたれかけさせて、顔を膝に埋めた。

 モモセに起こされたときにはすでに洗濯機は止まっていた。母がそろそろ帰ってくるだろうから、そんな床で寝てたら何か言われるんじゃないか、ということを伝えられた。サクマは短く礼を言って、洗濯機からシャツを出すと部屋に戻った。まだ乾ききっていないシャツを部屋の隅にハンガーで吊るしていると、玄関先の扉が閉じる音がした。モモセの言った通り、母が帰ってきたのだろう。「帰ってたの?」という声がするので、部屋からうん、と答えた。窓を見やると、まだ雨が降っている。どんよりと灰色の空に埋め尽くされていて、室内も電気をつけないと暗い。1時間ほどうたたねをしていたらしい。ずっと下を向いたままの状態だったので、首が少し痛む。肩を上げ下げしながら首をぐるりと回すと、モモセが「おじさんくさい」と笑った。洗濯機の前でもそうだったが、随分と調子を取り戻したみたいだった。サクマも、眠ったせいなのかそれとも別の理由なのか、息の詰まりそうな感覚が薄れているような気がしていた。
「ね、仕事場でお菓子もらっちゃったから、食べない?」
 部屋の向こうで母が弾んだ声で聞いてきた。「わかったよ」と返事をしてからサクマは部屋を出ようとした。持ち出したリュックは机に放置したままで、口が開いている。そこから携帯が机に滑り出ていて、ちょうど何かを受信したのかぼやっと光を発している。あとで確認すればいいと億劫そうな表情をしていると、モモセが携帯を覗き込んだ。あまりいい気分はしなかったが、声には出さず、むっとしてみせる。
「コマキって書いてあったよ。電話」
 電話? サクマは首を傾げるものの、すぐに出ないと手で払いのけるような仕草をした。そしてリビングに出ると、母がテーブルにクッキーの箱を広げていた。
「おかえり」
「ただいま。図書館は収穫あった?」
 母の何気ない言葉にぎくりとしたが、すぐに、特にはと言った。図書館に行くと誤魔化していたのを忘れていた。
「仕事場の、ほら、新しく入っていたっていう子。その子がね、お土産だってくれたの。軽井沢に行っていたんですって」
 クッキーの小袋を数枚、母はサクマに渡した。モモセが「いいなぁ」と呟いた。くれてやりたいくらいではあったが、たべられないだろうと呆れながらも、表面上はなんでもないように「そうなんだ」と取り繕う。
「宿題はどう?」
「ぼちぼち」
「何か自由研究とか、そういうのあったら、おばあちゃんにお願いして連れてもらったりしてもらっていい?」
「自由研究はないよ」
「そうだったっけ。まぁいいか……みんなはどうしてるの?」
「みんなって?」
 サクマは母の目を見る。しかし母はクッキーを割ることに注意を払っている。割って、一口で食べられるようにしないと口に運ばないのだ。しかも割ったときに破片が飛びちらないように、そっと力を入れている。
「学校の子たちよ。何か遊ぼうとか、お誘い」
 声を荒げることはしなかったが、これ以上その話はしたくないことをそれとなく伝えるために、サクマは突き放した言い方をした。すると母はちらりと彼を見てから怪訝な顔で眉をひそめる。
「なんか機嫌悪いの?」
「悪くない」
 真逆のことを言うのはどうしてこうも疲れるのだろう。サクマはそれが義務であるかのようにクッキーを口の中に放り込んで咀嚼する。
「美味しい?」
「うん」
 母は満足げに頷いた。
「でね、その子が今度食事に行こうって言ってて……」
「うん。いってらっしゃい。その日はばあちゃんの家に行ってるから」
「冷たいなぁ。あなたにも会いたいって言ってるのよ」
「俺に? なんで」
 サクマはわざとらしく目を丸くさせた。それが意味することはなんとなく察していた。が、露骨に母に反対はしない。母は照れたようにはにかむ。
「私があなたの話をよくするから、どんな子なのか気になったんでしょう」
「よく話してるのにまだ気になるっていうの?」
「……ちょっと、今日はやけにつっかかるじゃない。どうかしたの? せっかくあなたにも……」
「一つ聞くけどさ。その人まだ三十そこそこでしょ? そんな人が“本当に”高校生の俺に会いたいと思う? ご挨拶程度のことだよ、母さん。その日はばあちゃんの家にいるから。息子は反抗期だけど健気に子育てをしてる若い母親で行った方がいいよ。その方が相手だってその気になるって」
「ねぇってば」
「ごめん」
 サクマは立ち上がるとさっさと部屋に引き返した。心臓がどくどくと早鐘を打っている。後ろ手で閉じた手が固まったかのようにドアノブに張り付いている。目をきつく瞑って大きく息を吐き出した。汗もかいてはいないが、額を拭う。
「あなたのママって美人よね」
 モモセは自分の定位置と決めたのか、サクマのベッドの上に腰掛けてそう呟いた。サクマは視線を落としてから、早口で言った。
「不幸な人だ」
「なに?」
「なんでもない」
 サクマは首を横に振った。携帯を見やると、不在通知が入っている。コマキだろう。留守電も入っていないので、何の用だろうかといぶかしむものの、どうせくだらない内容だとすぐに片付けた。
 俺のせいで不幸な人になった、なんてモモセに言ったら、彼女はどんなふうに答えるのだろうか。そうか、と聞き入れるかもしれないし、そうではないと否定するかもしれない。どちらもあり得るが、結局それを判断するのは母自身だ。母は仕事場の、自分より十近く年が下の男と食事に行くだろう。
 以前にもこんなことがあったのだ。仕事場の同僚を通じて知り合った男と食事に行くと言った日、母は深夜にふらふらになるほど酔って帰ってきた。酒を飲む母の姿を見たことがなかったサクマも仰天したが、何より印象的だったのが、「子持ちのなにがいけないのよ!」という大きな独り言だった。要するに、母は結婚指輪をしていないために誰かから言い寄られる。だが子どもがいると聞くと相手は尻込みして、それ以降食事には誘わなくなる。その男とも連絡を取り合っている様子もなかった。今回も、「会ってみたい」などと相手は言っているが、いざ会ったら前の男と同じことになるだろう。俺がいるかいないか、なんてそんなに重要だろうか。そんなときだけに限って。
「あなたのママってさ」
 机に腰掛けたサクマの背中にモモセが声をかける。彼は返事をしなかった。携帯を机の隅に、画面が見えないようにして置き、目の前に立てかけてあるノートと数学の問題集を開いた。ノートには書きかけの証明問題が残っていた。
「ねぇ、聞いてる? あなたのママ、どうしてあなたの名前をちっとも呼ばないのかしら?」
「さぁ」
「ねぇ、あのさ。……ちゃんと聞いてる? あたしさ、思ったことがあるんだけど」
 何度も聞いているかどうか確認してくるモモセにうんざりした表情でサクマは振り返る。すると彼女は少し身を前のめりにして話した。
「あたしたちさ、どうせ関係ない他人でしょ? 誰かに言いふらすこともしないし、というか、できないじゃない? だから愚痴をこぼすにしたって噂も流れないからとっても便利だと思うんだけど」
「それで?」
「あたし、最初に言ったじゃない? あたしが生きていた証が欲しいって。メグコのこと探してもらったから、ちゃんとお礼にサクマにお礼はするよ。でももう1つさ、あたしたち、もっとうまく利用し合えばいいじゃない。あたしはサクマにいろんなことを話したいし、サクマはそのうじうじしたことをあたしにばーっと吐き出す。そしたら、気分もすっきり、しかも誰もそんなことは知らないってことになるでしょう?」
「却下」
「なんでよ!」
「声がでかい!」
「誰と話してるの?」
 扉越しに母の声がして、しまったとサクマは口をつぐむ。モモセもばつの悪そうな顔をしていたが、すぐに携帯を指さした。サクマもそうしようと頷いて、扉に目を向ける。
「電話! コマキってやつ」
「あら、そう」
 すぐに足音が遠ざかっていく。リビングに戻ったのだろう。それにしても先ほどサクマが放った言葉についてまた触れて来なかったことに良かった、と彼は安堵する。モモセの方を見ると、なぜだかにこにこと笑っている。その表情を見るとサクマはどっと力が抜けたような気がして、やれやれと頭を抱えた。
 幸運なことに、母は夕食のときにもサクマが言ったことについて何も言わなかった。忘れてしまったのかもしれないし、もう話題に出すほどのものじゃないと決めたのかもしれない。その代わり、電話で話していたコマキというのはどんな子なのか、ということを聞いてきた。サクマも少し困った顔になった。適当に言っただけだったので、話せるほどコマキがどんな人間か知らないのだ。
「初めて聞いた気がする。どうかしたの?」
「……今日、図書館で会ったから」
「あぁ、そうだったの。何の話してたの?」
「宿題の話だよ」
「ふぅん。あぁ、そういえば、この間ね……」

 夜が来るのが遅いと感じたのはここ最近久しぶりのような気がする。サクマはベッドに倒れこんだ。体が重たい。ずっと降っていた雨は小雨に収まってきているが、どこかじとっとしている。モモセは、今度はサクマの机によりかかるようにして、なぜか鼻歌を歌っている。サクマが眠っているときにはできるだけ自分が行ける範囲で外をうろついているようだが、今日は室内にいるらしい。雨に濡れることはなくとも、雨の夜に外を出るのは憚れるのだろうか。
「あなたのママも眠ったみたいね。さっき部屋におじゃましてみたの。シンプルだけど、おしゃれにしているのね」
「そう」
 親の部屋の様子など、あまり興味がなかった。それに、入ってはいけないような気がしている。あそこには母が母親という役割からも少し解放されて、個人になる空間のように思っている。サクマは寝転んだままモモセの方に顔を向けていたが、ふと思い立ったように体を起こすと、机に置きっ放しにしていた携帯に手を伸ばした。
「こんな時間に電話するの?」
 携帯の画面には00:20 という表示。もうそんな遅い時間なのか、とサクマは瞼を重たそうにしながら携帯を開く。不在通知が3つ。全てコマキだ。留守電くらい残しておけよ、と思いながらもサクマはラジオをつけた。ざざ、っとノイズが入り込んで、適当にチャンネルを合わせていく。
「ラジオ?」
「そう」
 サクマは音を少し下げてから適当に携帯を放った。ブランケットをかけて、モモセに背中を向けるようにして寝返りを打つ。耳元から少し離れたところで人が話しているのが聞こえる。ミュージシャンがパーソナリティをやっているようで、自分のライブの話をしている。
「あたし、この人たち知ってるかも」
 モモセが呟く。
「……もしかして、さ。気、遣ってくれてる?」
 答えたくなかったサクマは目を閉じた。自分だけじゃない空間だ。本当なら、落ち着かなくて眠れないはずなのに、閉じたあとからゆっくりと意識が落ちていった。

 サクマは夢を見ていた。その風景はどこか懐かしくもあった。じりじりと照りつける太陽から少しでも逃げるようにしゃがみこんだ、緑道の隅。葉の隙間からも地面を焼こうと光線が降ってくる。アパートのすぐ近くの緑道、ここでサクマは帽子を被って、植え込みの中をじっと観察している。今の自分の視界に移っているのは、大きすぎる帽子を、まるで頭からかじられていくんじゃないかというくらい不釣り合いに被っている少年の姿だ。幼い頃の自分の姿を、写真で眺めているような気分だ。少年は自分に気がつくことなく、植え込みの柵の手前で体を丸めて微動だにしない。やけに静かだな、と15歳のサクマは辺りを見渡してから、植え込みの中を覗き込んだ。白く伸びきった体。自分が眺めていた、猫の死体。そういえば、どうしてこの猫は死んでしまったのだろうか。そんなことを今になって考える。ここから見ていた限りでは、傷もなかった。だから、いつかひょっこり起き上がるんじゃないかと待っていた。何度か瞬きをした感覚、それからサクマは「あれ」と声を上げていた。
 植え込みの隙間に倒れていた猫が、いなくなっている。代わりに、誰かが倒れている。こちらに背中を向け、長い黒髪が流れ落ちている。白く浮くような手足が投げ出されていて、ふと右を見るものの、幼い頃の自分の姿も消えていた。誰が倒れているのか……確かめなくとも、サクマにはわかった。前に踏み込もうとすると、低かったはずの植え込みの柵に足が引っかかる。体が動かなくなって、はっと目を開けた。

「……今朝の天気は、晴れ。昨日は多くの地域で雨でしたが、今日はまた蒸し暑くなるでしょう。おでかけの際には熱中症にはお気をつけください……」
 目を覚ましたと同時に、知らない女の声が聞こえる。声のする方に顔をずらすと、携帯から流れてきている。ラジオを付けっぱなしにしていたのだと思い出すと、止めた。のそりと体を起こすと、明るい朝日が差し込んでいる。7時。支度をしたら祖父母のいる店に行こうと決めるとすぐに着替えを始めた。リビングに出ると、モモセが机にもたれかかっていた。
「おはよー。ラジオありがとね。結構面白いもんだね、全然聞いたことなかったから。あ、さっきまで聞いてたんだけどさ、サクマが起きそうだからちょっと出ててあげたの。着替えとかさ、いくらあたしでも見られるのは気分良くないでしょう?」
 サクマは頷いてから、キッチンの棚に入っているシリアルとボウルを出して朝食の準備を始めた。7時20分。8時になれば母も起きて仕事の支度を始めるだろう。それまでには出てしまったほうがいい。テレビをつけながら、黙々とサクマはシリアルを噛み砕いて飲み込む。
「結構みんなさ、くだらないことで悩むよね。……あたしやサクマの悩みなんてのも、この世の中の問題に比べたらちっぽけなんだろうけど」
 ラジオのお便り相談で聞いた、彼女なりに印象的だった話を一方的に聞かせてきた。記憶がないので、おそらくサクマが完全に寝入っていたときに聞いたのだろう。ダイエットを失敗した話、きょうだいの宿題を手伝わされてうんざりしている話、デート先で失敗した話。
「きっと、自分のことだったらとんでもない一大事に感じるのに、他人になった途端にすごくくだらない、笑える話に聞こえちゃうんだから」
「たしかに」
 サクマは短く相槌を打った。モモセは嬉しそうにしながら、テレビのニュースにふと注意を払う。インターネット犯罪について取り上げている。サクマは関心を持った様子もなく、空になったボウルを持って流しに立った。
「今日はお店?」
「そう」
「あたし、あのお店好きだな」
「そりゃよかった」
 軽くボウルを洗うと、洗面所で歯を磨き、リュックと自転車の鍵を持って外を出た。朝から少し日差しが暑い。
「ね、ラジオまた聴きたいな」
「夜になったらな」
 自転車を出し、誰もいないことを確かめてからサクマは答える。
「そしたらさ、おたより出そうよ」
「なんて」
「うーん……考えとく」
 モモセは当然のごとく自転車の後ろに腰掛け、さ、行こう、と彼を急かした。

続く