6.触れない

 アイウチの家で聞いたスーパーとは自転車ですぐの場所にあった。小さい駐輪場に自転車を停めると、サクマは重い足取りで店内に入る。モモセを待っている時間と、慣れない下手な嘘による緊張で喉が渇いていた。店内は照明がやや暗いが涼しく、どこか落ち着く。カゴを持たずにサクマは飲み物を売っているコーナーに向かう。モモセはついてきていたが、ふと思い出したかのようにあたりを見渡した。
「いいよ」
 サクマは囁くように言う。モモセは頷いて、彼から離れた。アイウチメグコを探すのだろう。ペットボトルが並んだ一角で何を買おうか迷いながら、時間を潰す。炭酸もいいかもしれないが、なんだか気分じゃないな、と適当にミネラルウォーターを手に取る。モモセも戻ってくる気配がしないので、どうしたものかとなんとなく菓子コーナーに向かう途中、誰かに肩を叩かれた。モモセかと一瞬錯覚したが、彼女は触れることはできないのだったと思い出す。振り返ると、「よ」と片手を上げている少年が立っていた。片手からぶら下げたカゴには2リットルのペットボトルに野菜、それに調味料も入っている。サクマは一瞬名前が思い浮かばず目を細めた。サクマと同じクラスの生徒だ。
「びっくりした。サクマってこのへんに住んでたっけ?」
 名前がいまいちしっくり当てはまらない。ええっと……出席番号が最初の方だった。ア、ア、ア……。
「いや、たまたま立ち寄っただけ」
「そっか。全然返信しないから、どうしてるかなって」
 サクマははっと思い出した。あぁ、そうだ。携帯に山積みになっている連絡通知。そこにはサクマを巻き込んでクラスの数人がやりとりしている会話が延々と繋がっている。高校に入学し、席が近くになった同士で自然と連絡先を交換することになってしまったのだ。断りたかったものの、当然のごとく連絡先を押し付けられたサクマもしぶしぶ参加することになったが、結局夏休みに入ってからも一度も見ていない。通知が100も200も溜まってしまって、そのことを言及されると少し痛い。
 そうだ、コマキだ。サクマはまじまじとその顔を見つめる。名前は出てこない。黄色っぽい茶髪に、少し日に焼けている。真ん中にサーフボードがプリントされている、褪せた赤いシャツを着ていた。夏も充実しているのだろう。具体的に話した内容こそ記憶にないが、入学当初は出席番号も近かったので会話もしたことがある。どこかのんびりとした雰囲気ではあるが、話す声ははきはきとしている。
「あぁ……そう」
「夏休みさ、あのメンバーでどっか遊びに行こうって話になっててさ。サクマ、通知見てる?」
「いや……」
 興味がない、とはっきりと言うのも気が引けた。だが、興味がないのは事実だ。相手は名前も思い出せなくなる人間だ。サクマは手元のペットボトルに視線を落として何か言い訳がないかを一瞬考えた。
「店……手伝わないといけないから」
「店?」
「ばぁちゃんの家。花屋だから」
「忙しいんだ? じゃあ、それ言っておくよ」
「いいって……」
 なんだか面倒くさくなってしまって、サクマは投げやりに首を横に振った。だがコマキも露骨に嫌がるという表情もなく、むしろサクマを心配そうにしていた。
「まぁまぁ、サクマから反応ないって心配してたから」
「……そう」
「うん。……よかったらさ、連絡くれよな」
 コマキはそう言うとレジの方へと歩いていく。サクマはできるだけ反対方向に行きたかったので意味もなく菓子パンのあるコーナーに向かった。
 俺はコマキの名前なんて忘れていた。あいつもそうだと思っていた。サクマという名前も、存在も、忘れるだろうと思っていた。だけど、あいつは俺に気がついて、声をかけた。しかし同時に影も差す。心配そうにするが、本当は何一つ知らないコマキに対して。彼は当然だが、サクマが廃ビルの屋上にいたことなぞ知らない。どうして捨てられたあの建物に侵入しようとしたのかも。当然サクマは誰にも言っていないのでコマキが知らないのもまた自然なことだ。だが、自分のことを知りもしない人間が自分を気にかける素振りをする。それがサクマにとって違和感を感じさせていた。
 人と話すことも、適当に付き合っていくこともどうとも思っていないが、それ以上自分に踏み込まれることを自然と避けていた。自分が代替可能な存在だと、サクマは思っていた。
 つまり、誰でもいい。
 たまたま自分がサクマという苗字であるがためにクラスメイトたちと連絡先を交換することになり、たまたま自分がスーパーで水を買っていたから。だからこそ、嫌気がさしたのだ。自分が自分でなくとも通じる生き方に、全てに。
「いたよ! メグコ!」
 菓子パンコーナーで突っ立っていると、モモセが棚の存在を無視して突っ切ってきた。棚に腕をすり抜けさせて興奮気味に話す。サクマは無表情で話を待つ。
「レジにいる! 今、サクマと同い年くらいの子のレジやってた。早くいこ!」
 サクマはあぁ、と生返事をするとモモセはきょとんとしていた。サクマと同じくらいの年齢というのはおそらくコマキのことだろう。サクマは片手でペットボトルを指先で引っ掛けるように持ち替えてレジへと向かう。
 コマキに会って、いろいろと引きずり出されるように思い出してしまった。廃ビルに侵入しようと思い至ったあの瞬間を。頭の右側が鈍く痛む。
 そして、モモセを横目にふと捉える。俺にだけにしか見えない存在。もし……何かの拍子にコマキがあのビルに行っていたら、モモセはコマキにこのことを頼んでいたのだろう。コマキだったら、もう少し協力的だったかもしれないな、と内心苦々しい気持ちが渦巻いてもいた。
「どうして……俺だけなんだろうな」
 サクマは周りにいる人のことを気にも留めずにそう呟いた。
 こんなときだけ、押し付けられ役みたいだ。
「サクマ? どうかした?」
 モモセが顔を覗き込む。なんでもない、と空いている手をひらひらとさせてサクマはレジへと向かう。モモセが指差したのは、一番右手にあるレジだ。昼前ではあるが客の出入りも多くはないのですんなりとそのレジに入り込むことができた。
「作戦あるの?」
 こそこそとモモセが耳打ちをする。ここで独り言を話していても怪しまれると冷静さを取り戻したサクマは沈黙していた。目の前に目標があるなら、特に細かいことを気にしなくてもいいだろう。彼はペットボトルを置いて、財布を取り出した。アイウチメグコはキャラメルのような色の髪を束ね、どこか怠そうにサクマの持ってきたペットボトルのバーコードを読み取る。サクマの後ろに客はない。これなら話ができそうだ。
「メグコ……」
 弱々しくモモセが呼びかけた。やっとたどり着いた探し人だというのに、あまり嬉しくなさそうだった。アイウチメグコらしきその人物の胸元には確かにアイウチという名札が張り付けられている。間違いない。
 サクマは息を吸った。値段を声にされ、財布から小銭を出した瞬間サクマは口を開いた。
「アイウチメグコさんですよね」

 アイウチメグコはサクマを見るなり大きな目を何度か瞬きをした。なぜ自分が知らない人間がそんなことを聞いてくるのか、と言いたげな表情だ。サクマは濃く縁取られたその目をじっと見ながら質問を重ねる。
「モモセを知っていますか」
「知りません」
 それは、すぐさま出てきた答えだった。サクマが言葉を言い終わらないうちにアイウチメグコはきっぱりと否定し、そしてサクマが持ってきたペットボトルの値段をもう一度繰り返した。サクマは財布を開けかけていた手が止まっていたことに今更気がつくと、小銭を置いた。手際よくアイウチメグコは釣り銭とレシートを投げやりに渡した。サクマは彼女の目をじっと探っていたが、向こうは睨みつけるような視線をぶつけ返してきた。すぐ横にいるモモセは黙ったままだった。サクマはこれ以上粘っても何も得ることができないと思い、店を出た。
 自転車に寄りかかり、店の前で買ったばかりの水を飲んだ。一気に飲むと、半分近く量は減っていた。モモセは目の前でうなだれたままだった。サクマの前を買い物終わりの主婦が歩いていく。人目が気になるのでとりあえず移動を始めた。自転車にまたがると、モモセも後ろに乗った。
「ねぇ、行きたいところがあるんだけど」
 モモセは静かに言った。今にも消え入りそうな声だった。サクマは目の前の信号で止まり、振り返る。モモセはあっち、と道を示す。モモセの言った通りにサクマは自転車のハンドルを切った。
 スーパーから北若浦高校が見える道にまで出ると、サクマの家の方面から少しそれた道へと進む。サクマもあまり行ったことがないので少し戸惑ったものの、中途半端に引き返してしまうと余計に迷子になってしまうと思い、なんとかモモセの言った道をたどる。不安定な砂利道をでこぼこと進み、ようやく現れた閑静な住宅街を抜ける。その住宅街からつながる細い通りがあり、その道に沿って進むと小さな広場を見つけた。東屋だけがある場所で、モモセは自転車から降りるとその東屋の下にある椅子に腰掛けた。4、5人が掛けられるテーブルと椅子のセットがあるが、あまり使われていないのだろうか、どちらも砂を被って座り心地もあまり良くない。サクマは自分が座る位置を決めると、辺りの砂を払い落とした。
「ありがとう、連れてきてくれて」
 向かい側に座ったモモセはふと微笑んだ。礼を言われるほどではないと思い、サクマは黙っていた。先ほどの照りつくような日差しから、少し雲がかかり始めた。モモセは住宅地を見上げるように顔を上げる。
「あたしの家。あの黄色い壁のとこ。見える? ママとパパと、弟がいるの。弟はあたしの2つ年下。頭はいいけれど、引っ込み思案なの」
「……」
「メグコ、結婚してたんだね。薬指に指輪があった」
「……」
「大人になったメグコを見るとね、あたしのことなんか忘れちゃっても仕方ないのかなって。だって、いろんなことあるでしょう? 恋愛して、結婚して、もしかしたら子どももいるかもしれないし」
「嘘だ」
「へ?」
「アイウチメグコは、モモセを忘れてなんかいない」
 サクマはぼそりと言った。レジでの会話を思い出す。まるで、モモセという言葉に反応して知らない、と答えているようだった。忘れたのではなくて、忘れたいのに忘れられないのだ。人の嘘を見分けることを得意としているわけではないが、誰が見てもあからさまな態度だろう。それだけアイウチメグコは焦っていた。モモセはサクマを見てから、目を伏せる。
「ありがと」
 サクマは腑に落ちないような表情をした。
 モモセがサクマに最初に頼んだ内容は、「生きていた証が欲しい」だった。そして、その証が探し人、アイウチメグコだった。だが、アイウチメグコはモモセを忘れたがっている。そんな人間がモモセの「生きていた証」なのだろうか。モモセはこれで満足しているのだろうか、こんなことで、成仏できるのだろうか。
「それで、サクマの頼みごとってなんだっけ」
 モモセは諦めているようだ。もしかしたら、アイウチメグコが自分のことを忘れようとしているということはすでにわかっていたんじゃないか。
 他人のことなんかどうでもいい。この頼みごとを聞いていたのも、自分が聞いて欲しいことがあったから……互いの要求がかみ合っていたから協力するだけだ。サクマはそう自分に言い聞かせるものの、どこか胸のあたりがもやもやしている。肘をついて、口元を手のひらで隠すようにして息をふぅと吐き出した。
「サクマ?」
「……それで、満足?」
「ん?」
「お前の生きた証って、そんなもの?」
 モモセは呆然としてサクマを見つめた。目を見開き、唇をきゅっと結んでいた。
「どうしよう……」
 震える声でモモセは呟く。
「泣きたいのに……涙、出ない……」
 ひく、と息を引きつらせ、肩が少し上下する。曇り空がだんだんと灰色がかってきて、一雨降るかもしれないとサクマは外を見る。肩を出しているモモセが寒がるだろうか、と思ってすぐに、目の前の人間は幽霊であるということをまた忘れていたと気付く。モモセは両手で自分の顔を覆って、嗚咽を漏らしている。泣こうとしている人間を見るのは随分となかったような気がして、サクマもどう声をかけたらいいのかわからなかった。ぽつ、ぽつ、と小さな雫が空から落ちてくる。サクマは自転車を東屋の屋根の下に納まるように引き寄せに行き、そしてまた椅子に腰掛けた。
「家には」
「……行きたくない。弟を見たら、もっと辛くなりそう」
「そ」
「弟もあたしを忘れてるかもしれない」
「忘れてない」
「なんでそう言えるの!」
 モモセが声を荒げて立ち上がった。勢いよく机を叩きたかったのかもしれないが、何も起きない。サクマはモモセが怒った表情をしたことに眉を動かしたが、肘をついて彼女の家の方へ視線をやった。
「アイウチメグコも忘れていない」
「じゃあなんで……なんで、あんなふうに……」
「俺が他人だから。俺に知られたくないことがあるんだろ。お前とあいつにしか知られたくないことでも」
 ただ、サクマはその話を聞く気にはなれなかった。サクマがモモセのことを見えていることも、そのモモセに話を聞いたからモモセに何か言ってやれとアイウチメグコに言うこともできないだろうと考えていた。ただ、それが彼女にとって都合の悪い話であることは間違いない。
「……あたし、メグコのこと許してあげたかった」
 少し落ち着きを取り戻したのか、モモセはゆっくりとそう言った。
「あたしには、メグコの持ってないものを持ってるって、前に話したでしょ? …メグコは、あたしから取れるものなら欲しかった。高校に入ってすぐ、メグコはあたしから友だちを取った。それに、メグコが不良グループとつるむようになって、あたしとメグコが仲よかったって知ってた子たちはあたしからだんだん距離を取るようになった。あたしも不良グループに入ってると思われたから。でもって、不良グループはあたしのことを脅すようになった。メグコと一緒に万引きをしろとか。……どこにも居場所がなくて、あたし、学校に行きたくなくなったの。遺言にね、あたしが死んだら全部メグコのせいだって、書いてやった」
 一気に話し終えると、メグコは長いため息をついた。
「だから……あたしのことを覚えているなら、許してあげたかった。本当はそんなこと思ってないよって、言ってあげたかった」
 モモセは上を向いた。今にも崩れていなくなってしまいそうな目をしている。サクマはもう一度モモセの家を見上げた。2階のカーテンは閉じたままで、人気を感じ取れなかった。もしかしたら不在なのかもしれない。
「本降りになる前に、戻ろう」
「戻るって、どこに」
「家に決まってるだろ」
 サクマは自転車を出す。すぐに止みそうになかったので、ずぶ濡れになる前に帰りたかった。モモセはその場に座り込んだままだったので、サクマはため息をついた。
「どうするんだよ」
「……どうしたらいいかな?」
「俺に聞くな。散々自分で振り回したくせに」
 サクマは淡々と言った。また癇癪を起こすだろうかと眉をひそめていたが、モモセは静かに立ち上がった。長い髪に白いワンピース姿がこれほどまでに「幽霊」だと思わせる瞬間を、サクマは初めて見たような気がした。透けた肌は暗い色を写し取っている。サクマは雨に濡れながら自転車に跨って、待っていた。モモセは自転車の後ろに乗る。帰路についていく中、二人は何一つ会話を交わさなかった。

続く