5.忘却

 店から自宅に帰ったときに、母はまだ帰っていなかった。土曜日でも仕事が入るときもあり、サクマは暗い部屋を見渡すと誰もいないことに息を吐いた。冷蔵庫にメモが貼ってあり、母からお腹が減ったら食べて、というメッセージが残されていた。
「これ、かわいいね」
 モモセは冷蔵庫にマグネットで付けられた写真を指差した。幼い頃のサクマが、母に抱かれている写真だ。まだ1歳くらいだろうか、膨れた頰で不思議そうにカメラの方を見つめている。色褪せてきているのでそろそろ外したらどうだ、と母に何度か言ったものの、母は外そうとはしなかった。これを見るとね、元気になれるのよ。そう言う母はいつもこの写真を見ると口元を緩める。サクマはそれを聞くたびに、なんとも言えない気分になるのだ。
 冷蔵庫を開けると、メモにあった通りにプリンが1つだけ入っている。特に空腹でもなく、それに母が帰って来ればすぐに夕飯だろうと冷蔵庫を閉めた。
「それで、アイウチメグコだけど」
 サクマは自室に行き、勉強机の椅子に腰掛けた。モモセはベッドにどかっと座り、足をぶらつかせ、そうだなぁ、と天井を見上げた。
「歳は25、6?」
「うん、そのくらいかな」
「正確な歳、わからないのか」
「お恥ずかしながら……」
「他には?」
「実家ならわかるよ。でも、この家とは反対側かも。高校から比較的近かったと思う」
 それなら話は早いな。サクマは机に置き去りにしてきた携帯を見やる。また通知が増えている。一応メールだけ確認すると、母から冷蔵庫を見たかという内容が昼近くに来ていた。
「ねぇ」
「なに」
 モモセはうつむきがち自分のつま先を眺めていた。先ほどまでの調子付いた声とは変わって、どこか重みのあるものだった。
「聞かないんだね」
「なにを」
「いろいろと」
 サクマは眉根を寄せる。いろいろってなんだよ。……死んだ理由か? それとも、アイウチメグコとの関係か? そんなことを俺が聞いて何になるっていうんだ。俺はただ、探して欲しいという願いを聞いてやっているだけだ。……自分との交換条件で。ただそれだけ。それに、モモセだってサクマに何も聞いてきやしない。あの日屋上にいたことも、フェンスをペンチで切っていたことも、その理由でさえも。お互いに、それだけは触れたくない、触れてはいけないという薄透明のベールをかけたみたいに。
「聞いて欲しいのかよ」
「……わかんない」
「あっそう」
「じゃあ、聞いてって言ったら、聞いてくれる?」
「勝手に話してたら、そりゃ聞こえる」
 モモセはくすりと笑った。モモセはベッドに倒れこんだ。やめろ、とサクマはしかめ面をしたが、ベッドは音も立てることも、埃が舞うこともない。
「メグコは、あたしのことが嫌いだったの」
 笑いながら話すモモセにサクマは違和感を感じていた。
「あたしとメグコはね、会ってすぐは仲良しだった。あたしはメグコが欲しいもの全部、持ってた。それがダメだった」
 仲良しの家族。たくさんの友達。近所で良くしてくれるおじさんおばさん。そこそこ良い成績。部活仲間。モモセは指を折って数える。
 サクマはそれを聞いても羨ましくも感じなかった。おそらく、これらを持ち合わせているモモセは誰が聞いても「望ましい人間像」なのだろう。それは理解できるが、サクマはそれを欲しいと思ったことはない。興味が無いのが表情に出ていたのか、モモセは体を上げてサクマを見るとくすっとまた笑う。
「君はそういうの、いらないって顔してる」
「俺には無理だな」
「ははっ。でも、メグコは欲しかったんだよ」
「それで?」
「お友達はたくさんできたみたい」
 モモセは足を組んで、人差し指と中指で何かをつまむ仕草をしてから息を吐き出した。それがタバコを吸うフリだと気付くには少し時間がかかった。
「非行?」
「そんな感じ」
「で?」
「あたしがいなくなって、あの子、どうしたかなーって思ったの」
「それだけ?」
「うん」
 そんなことを確認したいがために、こいつは何年も亡霊の姿で彷徨い続けていたというのか。理解できないな、とサクマは首を横に振った。非行に走った人間のことなんか、どうだっていい。そいつが選んだ道だ。そいつのことを気にかけている暇なんてあるものか。サクマの高校でも、中学まではまだやんちゃで済んでいた者が髪を染めたり、上級生と一緒に混ざって他のグループと取っ組み合いの喧嘩をしている噂が流れていた。くだらない。粋がって吠えているのならその辺りで誰にでも吠える犬の方がまだマシだ。
「もしかして、怖い? 今は落ち着いてるかもしれないから、大丈夫だよ」
 黙りこくったサクマに、モモセはそっと言う。そうじゃない、と少しむきになってサクマは答える。
「そんなことのために、人探しをさせてるのかよ」
「そんなことなんかじゃない」
 モモセは真剣な顔で言い返す。じっとサクマの両目を見つめ、強く。圧されると思ったサクマは目を逸らした。そんなことじゃない。モモセは繰り返した。廊下から扉の開く音と、この張り詰めた空気に合わない、ただいまぁという間延びした母の声。帰ってきたようだ。サクマは立ち上がってその場から逃れようとした。
「そっちだって、あたしにしてもらおうとしてることって、そんなに重要だからあたしの言ってること、聞いたんでしょ」
 背中に突き刺さる言葉。ふと足が止まったものの、サクマは部屋を出ると後ろ手で勢いよく閉めた。
「なに? どうかした?」
 母がきょとんとした顔をしている。
「なんでもないよ、母さん。おかえり」
 仕事から帰ってきた母に、できるだけ気分を良くしてもらえるように微笑もうとする。母が冷蔵庫の自分に微笑みかけるように。なのに、頰が引き攣ってしまった。すぐに彼は下を向いて、表情を消した。

 2日後の月曜日、サクマは図書館に行くと言ってアイウチメグコの自宅周辺を見に行くことにした。自転車で自分が通っている高校の方面まで走っているが、むわりとした風が強く、あまり気分はよくない。街全体が温室にとじ込められたみたいだ。モモセはずっと黙っていたし、家の中をぐるぐる回って遊んでいる様子もなかった。2日前に気まずい雰囲気になってから、モモセは外に出ていたりしてサクマにも話しかけてこなかった。だが、出かける前に「アイウチメグコの家の方に行くから案内して」と言うと嬉しそうに荷台に横向きで座った。風を浴びながらモモセは鼻歌を歌う。サクマの知らない曲だ。
「なんでこの街に1つしかないのに、北若浦ってわざわざ北ってついてると思う?」
 モモセは鼻歌をやめるとそんなことを言い始めた。サクマはわずかに首を横に振って答える。学校までの道は自転車で約10分。夏休み中は部活動をしている生徒もいるのか、近付くにつれて同じ年頃の者たちがちらほらと歩いているのを見かける。特に何か有力な部活動があるわけではないが、強いて言うなら野球が盛んで校舎裏のグラウンドを占拠している。走っていると、だんだんと校舎が近くなり、開きっぱなしの正門を素通りした。
「昔はね、西若浦高校っていう学校があったんだって。でも、生徒がいなくなって、そのうち北若浦に吸収されちゃったんだってさ」
 モモセは得意げにサクマに話した。サクマもそれは初耳で、ふぅん、と答えた。
「簡単に忘れられるんだよね、学校でも」
 ぽつりとこぼした言葉に、サクマはなにも言わなかった。校舎を通りすぎたところで横断歩道があり、サクマは自転車を止めた。モモセをわずかに振り返ると、モモセは左手の道を指差した。
「この間さ、サクマはメグコを探すの、そんなことって言ったよね。……よく考えたらね、最後はそんなに仲良くなかった子だし、覚えてないのもありえるのに、探し出そうとするなんてバカげてるかもって思ってきてさ。そしたら、西若浦のこと思い出した」
 サクマはそれを聞いて、正直言って面倒臭いと思っていた。2日前のことを掘り返されても、後味の悪さが蘇って胃のあたりがざわつくのだ。
 人は、忘れるという機能を持っている。逆に言えば、思い出さないようにする機能。それはある意味で重要だ。自分にとって大切な記憶をちゃんと自分のストレージに保存しておくためにも、そして自分を守るためにも。だから人は忘れる。あのとき廃ビルのフェンスをくぐったときも、サクマはそんなことを考えていた。いつか自分は忘れられるのだろうと。あの屋上遊園地の遊具のように。それは、西若浦高校と同じ。学校や遊園地が忘れられるというのなら、こんな俺一人忘れるのなんか簡単なことだろう。何か注目されるような人柄でも、成績でも、運動神経でもない自分が。
「多分、このへんだと思う」
 モモセが言うと、サクマは一旦自転車を脇道に止めて携帯を取り出した。あたりを見渡してから誰もいないことを確認する。
「なら、俺から離れてアイウチの家を探して。俺はこのへんにいるから」
「オッケー」
 モモセは降りるとふわふわと漂いながら道を進み始める。サクマはその背中を見送ってから、停めた自転車に跨ったまま木陰で携帯を開いて誰かを待っているような、ちょっと道を探しているような素振りを演じていた。じりじりと照りつく日差しの下、帽子でも持って来れば良かっただろうかと後悔する。蝉がやかましく喚き立てる。足元の木と青々と生えている雑草を携帯越しから眺めていると、サクマは幼い頃を思い出す。

 アパートのすぐ近くにある、緑道の植え込みの中に倒れている猫の姿。サクマはそのとき、母から被せられたつばの広い帽子を被り、じっと座り込んでその猫を観察していた。最初は白い塊が落ちていると思い込んでいたのだが、薄平たく伸びている状態が気になって注意深く見ると猫だということがわかると、その猫がいつになったら動き出すのかを待っていた。かんかんと照りつく、いつだったかははっきりとは思い出せない夏の日。蝉が鳴き、自分の頰や額から汗がつーっと垂れてくるのも気にも留めずに、待っていた。なぜか自分から緑道の植え込みに入り込んでまで触れようとはしなかった。
 猫はこちらに背中を向けて、体を伸ばしていた。どのくらい経ったか、母が帰ってこない息子を連れ戻しに緑道まで来ると猫を見て息を呑んだ。母はその猫が死んでいることがすぐにわかったという。サクマもそれを聞いても驚かなかった。なぜあのとき自分が猫をあんなに見つめていたのか、そして母に死んじゃってるのよ、と悲しい顔で言われたときにどうして同じように自分も悲しむことができなかったのか。そして、どうしてこれまでたくさんのことを忘れようとしているのにこんなことをずっと覚えているのか。記憶は案外がらくたなのかもしれない。

 右足に体重をかけ、上半身をハンドルにもたれかかった状態のまま携帯をぼーっと見ていると、モモセが「見つけたよ」と声をかけた。しかし、今まで探し人の話になると人が変わったように喜んでいた彼女だったが、今は嬉しくなさそうだった。
「わかった」
 だがサクマはそれをわかっていても聞かない。自転車を、モモセの言われた場所まで走らせる。ものの数分で家の前にたどり着く。表札には「相内」と書かれた、ごく一般的な一戸建ての家だ。手前の庭には洗濯物を干してある。
「で、中に入った?」
「ううん」
「行ってこいよ」
「呼んでくれないの?」
「どうやって……」
 俺は何も用事がないんだ、とサクマは頭を掻いた。死んだモモセという人間があなたを探しているんです、だなんて言えるわけがない。そんなことを言ったところで、警察を呼ばれるか、母や祖父母に連絡を入れられるだけだ。
「お願い、あたしのこと、覚えてるか確認したいの」
「……はぁ」
 サクマはリュックからタオルを取り出して額の汗を拭いた。とはいえ、人の家に突っ立っているのも怪しまれる。風がふわりと彼の背中を押す。ふと、タオルを持っていた手を広げてみた。タオルはふわっと流れに乗って、相内家の庭に落ちた。
「あ」
 モモセがサクマとタオルを交互に見る。
「これっきりだからな」
 サクマは自転車から降りて、インターホンを押した。はい、と声が返ってくると直接扉を開けた。出てきたのは60代ほどの女だった。サクマもつい、20代のアイウチメグコが出てくると思っていたのだが予想は外れだったようだ。しかし向こうも突然の訪問者に驚いている。
「あら、ごめんなさい。娘かと思って。どなたかしら?」
「あ……すみません。タオル、庭に入ってしまったので、取ってもいいか聞きたかっただけなんです」
 サクマは横の庭に落ちている自分のタオルを指差して答える。相手もあら、とつぶやいてから何の疑いも持たずに、どうぞ、と促す。サクマは首をすくめて、出来るだけ愛想が良さそうな少年の顔をした。
「すみません。娘さんじゃなくて」
「あら、いいのよ。ちょっと早いかなって思ってたから」
「……お仕事、ですか」
「そうなの。そこのスーパーでパートなんだけどね。見たことあるんじゃないかしら?」
「あるかもしれませんね」
 実際、こちら側のスーパーにはほとんど行ったことはない。これだけわかれば十分だろうとサクマはタオルを拾ってから、もう一度すみませんと会釈をしながら自転車に小走りで戻った。モモセが目を丸くしている。
「びっくりした。そんな演技ができるのね」
「ただの嘘つきだろ」
 小声で言いながら、自転車を走らせる。スーパーに行けば見つかるだろう。それに、喉も渇いた。何か買っておこう。できるだけ早くこの場から立ち去りたくて、サクマは時折腰を上げてペダルを回した。

続く