3.カサブランカ

 今日は比較的涼しいからと冷房をつけないで眠ったが、やはり蒸し暑くて目が覚めた。真っ暗な室内に、モモセがいるかどうかは見えなかった。窓を開けて、網戸をかける。ぬるい風が入り込む。水でも飲もうかとリビングに出る。

 キッチンの電気をつけると、モモセがテーブルの椅子に腰掛けているのがぼうっと浮かび上がって、叫びそうになる。サクマを見て彼女はにこりと微笑みかける。
「他に行く場所ないわけ?」
 冷蔵庫にあった冷えた麦茶をコップに入れ、サクマは自分がいつも座る席に腰掛ける。モモセが向かい合う場所に来る。時計を見ると夜中の2時。母ももうぐっすり眠っているに違いない。話をしても聞こえることはないだろう。
「なんか、遠くにはいけないみたい」
 モモセは両手自分の顔を包み、頬杖をついた。
「遠くって」
「せっかくあの場所から離れられた、と思ってて。退屈だからどこか行ってみようと思ったのだけれど、アパートを出ようとしたあたりで体が進まなくなっちゃったの。だから戻ってきた」
「なんで」
「知らないよ。グーグルで調べたら出てくる?」
「それだったら成仏の方法を検索する」
 モモセはそれもそうか、とあっけらかんとして頷いた。嫌味で言ったつもりの言葉が通じず、サクマは顔をしかめた。テーブルのすぐ横のテレビを見ると、黒い画面に自分の疲れた顔は映っているが、その向かいにいる者は画面の上には存在していない。その画面をじっと見ながら、サクマはモモセに聞く。
「俺に何しろって?」
「あたしの生きた証ってやつの話?」
「それ以外になにが?」
 サクマはうんざりしたように言う。
「そんな言い方しなくたっていいじゃん。あのね、大した話じゃないんだけどさ、探して欲しい人がいるの。え、今から行くわけじゃないよね?」
「何時だと思ってるんだよ。明日は手伝いあるし、俺の都合で動くからな」
「まー……そのへんはしょうがないね。久しぶりのシャバの空気でも満喫しようかなぁ」
 何が娑婆だよ、とサクマは呆れる。もっと、悲観的なものじゃないのか。こんなに明るい幽霊のくせして、まだ未練でもあるっていうのか。もしかしたら、俺もこうなっていたかもしれないってか? いや、そもそも俺には未練なんてあるのだろうか……。

「それよりもさ、サクマが叶えてほしいことって、何なの?」
 モモセはにやにやしている。悪巧みをしているとでも思われているのか、とサクマは彼女の顔をまじまじと見つめてから、投げやり気味に答えた。
「まだ教えられない」「結構やばいこと?」
「廃ビルに侵入するよりはマシ」
「そっか、なら、いいや」
「寝る」
「おやすみー。外でも眺めてようかな」
 モモセは立ち上がって壁に向かっていく。体右半分が壁に埋まった状態で一度振り返ると、にこやかに手を振った。
 サクマは返さないで席を立ち、コップを洗ってから自室に戻った。母の眠っている部屋の前で一度立ち止まったが、起きた様子もなかった。
 風が入ったためか、部屋は起きた時よりは気温は下がっているようだ。冷えに弱いために、いくら暑い部屋を涼しくしても薄いブランケット1枚はないと眠れなかった。自分には一度眠ればすぐに朝が来るが、モモセは夜を眺め続けているのだろう。虫の死骸でしかめつらをしていたような奴が、廊下の蛍光灯に集まる蛾や羽虫と出くわしても大丈夫なのだろうか。そうだとしても、俺がすることなんてないだろう。幽霊に暇つぶしを与えても、どうせ触ることができないのだから無意味だ。
 サクマは目を閉じて、できるだけ頭が空っぽになるように息をひそめた。明日が来てしまうことにも、諦めを示したような。そんな眠りについた。

 土曜日の昼空、高く上がった太陽はアスファルトをじりじりと焼いている。昨日の涼しげから、今日は変わって数度気温が高い。気候の変動に体調を崩す人や、熱中症にかかりやすいと朝のニュースでも注意喚起を促していた。
 サクマは店のレジ前に腰掛けて本をめくっていた。扉を開けっ放しにしているが、商品の品質を保つためなのか冷房がきつくかかっているために彼も半袖のシャツから長袖の上着を羽織っていた。
 扉の向こうの道では半袖の人々が片手をうちわ代わりに仰ぎ、そして店の前では漏れ出る冷たい空気に少しばかり脚を緩める。壁からせり出ているフラワーキーパーのガラスにへばりつくように、モモセが中に入っている切り花を見つめていた。
「綺麗だね〜。これ、ユリ?」
「カサブランカって書いてある」
 店内には誰もいない。小声でサクマは答えると本当だ、とモモセは手前にあった札をみて確認する。時折店先に置いてある小ぶりのひまわりに脚を止める通行人がいるが、買おうとする人はいなさそうだ。つい先ほども小さい子供を連れた親子が、お花だねと和やかに話していたがいつの間にかいなくなっていた。
 こう、こう、と古い冷房が音を立てているが、それとモモセの独り言以外は何も音のしない場所だ。鬱陶しいと思うものが何一つない、そんな時間がサクマにとっては一番落ち着いた。少ししてから店の前で車が停まる。サクマは本を閉じて重たそうに腰をあげ、モモセが自然とついてきた。
「おぉ、悪いな」
 車から降りてきた祖父が、車の後ろから花と苗が大量に積まれた容器をサクマに渡す。外に出ると急に日差しが顔に焼きつき、ぞわりとした感覚に襲われる。
 ずっしりとした容器を両手で受け取り、店の中へと引き返す。2回ほど同じ作業をしてから、祖父は車を店の後ろにある自宅の駐車場へと戻して行った。
「おじいちゃん帰ってきた?」
 店の奥からエプロンをつけたままの祖母が顔を出す。たった今、と答えると祖母は手招きをした。お昼にしよう、ということだった。店の扉を半分閉めて、店の奥から家と入る。

 祖父母が切り盛りしている花屋は自宅と併設している。母が仕事で出払っているとき、大抵はサクマもここにやってきて店番や簡単な手伝いをしていた。
 幼い頃から母が実の両親を手伝っている場面を目撃することが無かったが、母はひとりで留守番をさせるよりはとここに預けていた。決して良好な親子関係ではないことを悟ったのは小学校高学年くらいのことだ。
 この店から自転車で15分程度のアパートを借りて母子家庭を続けているが、その真意を聞けたことはない。一方で祖父母はサクマの面倒をよく見ているが、彼の前で母のことはほとんど口にはしない。
「お店寒いでしょう? 膝掛け出そうか?」
 畳の部屋にあぐらをかいて座ると、祖父が戻ってきて同じように座る。祖母に大丈夫、と答え、サクマは箸を取ろうともう一度立ち上がった。
「昨日は涼しかったのにね。今日は暑くなったでしょう? ヒイは暑い寒いが激しいと具合悪くしちゃうから、気をつけてね」
「ありがとう、ばぁちゃん」
「ヒイ、食べたら自転車でおつかい行ってくれるか?」
「いいよ」
 祖父の頼みごとにも頷いて、祖母が出してくれたサラダうどんをテーブルに揃える。モモセは家の中をうろうろし、開けたままの障子から見える庭へと顔を出していた。最初に祖父母を見たときにはにこりと笑いかけたり、ふざけて話しかけていたのだがどうやら飽きてしまったようだ。

 昼食を食べてから祖父に頼まれた配達をしに、庭から外に出て車の隣に置いてあるメタリックブルーの自転車の鍵を外した。車を挟んだ向かいで犬が吠える。
 祖父母が飼っている雑種の犬だ。サクマが小さい頃から知っている犬で、いつの間にか祖父が人から貰い受けてしまったと祖母は語っていた。コウメという名前は祖母が名付け、時折店先にも看板娘として客を待っている。人懐こいが賢く、サクマの言うこともよく聞く。
「わんちゃん、また後でね」
 モモセが手を振る。すると一瞬、コウメが強く吠えた。サクマも目を丸くして楽しそうにしているモモセを見やる。もしかして、見えている? ……まさか。コウメに手を振ると、コウメもすっとおすわりをして尻尾を振った。行くか、と呟いてサクマは自転車に跨った。

続く