2.生き延びる理由

 サクマの自宅は廃ビルから歩いて20分ほどの場所にある、2LDKのアパートだ。そこの黒ずんだ白塗りの壁に触れないように階段を上がり、部屋の前で鍵を取り出す。廊下の排水溝には羽虫の死骸が寄せ集められていて、モモセがそれを見て「げ」と顔をしかめていた。
 部屋からは光が漏れていて、すでに母が帰宅していることがわかった。かすかに料理の臭いがする。魚でも焼いているのだろうか。扉を開けるとすぐに、「おかえり」という声と戸棚で食器ががちゃがちゃと鳴る音が聞こえ、俺はまだ生きてるんだなと当たり前のことながら身にしみて感じていた。
「お邪魔しますー」
 モモセが閉まりかけていた扉にそのまま頭を突っ込む。扉を通り抜けると、勝手にサクマの前に出て部屋を覗き込んだ。ふと気になって彼女の足元へと視線を落とすと、幽霊と名乗る割には両足の形がくっきりと形を成していた。靴は履いていない。

 サクマはスニーカーを適当に脱ぎ捨ててから、片足で適当に直して家に上がる。上がってすぐにキッチンに向かっている母の背中が目に入る。母がコンロを開けると、平べったい皿によそっていく。やっぱり魚だったみたいだ。
「なに突っ立ってるの。ほら、ご飯にするよ」
 母が振り返る。サクマははっとして、気の抜けた返事をした。リュックを部屋に置きに行く。モモセは人の周りをうろうろとしながら、なにが面白いのか「ほうほう」と呟いている。何か不都合があるわけではないが、自分の部屋にもずけずけと入られるのはなんだか気分は良くない。
 一方で入るなと告げれば、自分の声を聞いた母が訝しむだろうと、サクマはモモセに何も言うことが出来なかった。
「わぁー、男の子の部屋って入るの初めてだ! 結構何も無いんだね」
 学習机には学校の教科書や夏休みの宿題が積まれているものの、部屋にあるのはその机とベッドくらいだ。それだけで部屋は狭くなってしまう。椅子の背中にリュックを引っ掛けると、中に入れていたペンチやはさみなどは引き出しにしまい、ロープはゴミ箱の底の方にこっそりと入れた。ポケットに入れっぱなしの携帯を机に置くと、通知がさらに増えていて、赤いボタンに書かれた数字が200にまで溜まっていた。どれも見るべきものではないのは最初からわかっている。
「携帯、全然見ないんだね」
 モモセが覗き込む。サクマは口を開きかけたものの、大きな独り言になるだけだと、盛大にため息を吐いた。投げやりな態度で、ようやく放置できたはずの携帯を取り上げて、文字を打ち込む。メモ帳を開いた彼は、彼女につきつけた。「家では話しはしない」。彼女は頰をぷくっと膨らませたものの、すぐに開き直ったのか「仕方ないね」と答えた。
 「あとあんまりうろつかない」。サクマは指を動かしてからもう一度彼女につきつけた。
「わかったよ。ご飯食べてくれば?」
 モモセも眉根を寄せたのでサクマもそれ以上は止め、部屋の電気を消してからリビングに戻る。

 後ろで電気を消したことに対して、モモセが文句を大声で言っていた。自分にだけ聞こえているはずだが、母親に聞こえていないか不安になった。だが母は気が付いておらず、皿をテーブルに並べ終わり、座って息子を待っている。
 向かいに座ると、母は食べようと促した。白米と鮭と味噌汁、それとおひたし。鮭の皿には大量の大根おろしが添えられている。今日は比較的涼しく、冷房はそこまで働いていないようだ。テーブルの横に取り付けられたテレビでも、気温が8月の割に低いということをニュースが取り上げている。涼しいといっても今は夏真っ盛りであって、サクマが廃ビルで地道にペンチを片手に錆びたフェンスを切っていたときは暑かった。
「大丈夫?」
 ふいに、母がそんなことを彼に聞いた。
「へ? なに?」
 味噌汁をすすっていた最中だったが、突然の質問にサクマも驚く。廃ビルに行ったことも、ましてやそこで自分がなにをしようとしていたのかも母は知らないはずだ。なのに、どこか心配そうにしている。何か、気付かれてしまったのだろうか。緊張のせいか、返事がぎこちなくなる。
 正直なところ、サクマの母は何かと物事に疎いことがあると息子の方は思っていた。だが、親というのはどうしてか、何か異変があると、気が付いて欲しくないときに限ってやけに鋭い。
「食欲、ない? やっぱりお肉にした方がよかったかな?」
 母は、息子のなかなか食が進まない様子を心配しているようだ。サクマは気の抜けた声で大丈夫、と答えた。妙に安心していたので、その態度も自分で思っている以上に自然なものだった。
「よかった。あ、チャンネル変えていい?」
 サクマが答える前に母はチャンネルを変えていた。
 各地の暑さを伝えるニュースは途中で途切れ、金曜のこの時間帯に放送されているドキュメンタリーへと画面が切り替わる。

 始まった。
 サクマは自分の気分がふさぎ込む感じがした。
 番組では、病気や災害を乗り越えた人々とそれを助けたプロたちを毎回取り上げ、番組のゲストたちが時折涙を流しながら素晴らしいと褒め称える。今日は私財を投げ打ってまで、誰も知らないようなアフリカのどこかで医療を施している男の話だ。彼ら自体はなにも悪くはないのだとサクマは自分自身に言い聞かせ、画面を見ないように箸をただただ進める。腹はあまり空いていなかったが、残せばまた心配されるのも面倒なので口の奥に詰め込む。そう、このテレビの人たちはこれでお金を貰っている、それで生活をしている。紹介されている人たちもそう、どこか聞いたこともない最果ての国で貧しい人を助けている人も、自分が築き上げた富を困っている人のための基金につぎ込んだ資産家も、彼ら自体は讃えられる人間なのだろう。彼らの困難も、その先にある幸福も、あれこれ自分が意見する権利なんてまるでない。
「あぁ、すごいなぁ、この人。ほら、見て見て、賞まで貰ったって。すごいねぇ、やっぱり……」
 “人のために何かできるってことは素晴らしいのね”。
 一体何度聞いただろうか。耳を塞いでも言いたいことがわかる。
「ごちそうさま」
 綺麗に空になった皿を重ね合わせ、両手を合わせるとサクマはすぐさま皿を流しに置いた。
「あれ、テレビいいの?」
「うん。宿題やらなきゃいけないし」
「そっか」

 風呂場に向かう途中、退屈そうにしているモモセが壁に寄りかかるようにして彼をじっと睨んでいた。
「なに」
 小声でモモセに言うと、彼女は意外そうに目を見開いた。
「話しないって言ってたじゃない」
「テレビで聞こえない」
 自分が叫んだりしない限りは、母はテレビから注意をそらすことはないだろう。時折、自分に言い聞かせるつもりなのか、大きな独り言を言う母の言葉にも、サクマは聞こえないふりをした。風呂に入る支度を続け、その周りをふわふわと浮いているモモセに冷たい視線をぶつけた。これ以上ついてくるな、という意味だ。モモセはくすっと笑った。

 結局、生き延びたな。サクマは熱い湯の中でぼんやりと今日のことを思い返していた。戻れないと決めておきながら、戻ってきてしまった。
 できれば金曜が良かったのだ、母が楽しみにしているあの番組を見る前に、決行しておくべきだったんだ。押し潰されそうな気持ちに苛まれることも無くなるし、呪文のようにこびりついた母の言葉からも解放されるはずだった。
 結局のこのこと帰ってきて、当たり前のように食事をして風呂に入っている自分がいつの間にか存在していることに恐怖すらも感じていた。ペンチでフェンスを断ち切る瞬間はなにも考えられなかった。むしろそれが心地良かった。その先なんて存在しないから。次のことをあれこれ考える必要もないから。
 なのに、今は倦怠感と恐怖が彼を沈めていた。明日も生き延びるだろうし、明後日も生き延びてしまう。来週にはまた同じことを思っては、結局何も出来ないで時間を過ごすしかない。
 明日も、その先も。それは一体いつまで続く? それだけでぞっとする。
 それに……。モモセという存在のことも、いまだに半信半疑のままだった。全部俺の妄想で、死にたくないという自分の何かがそうやって働きかけただけなんじゃないか。だとしたら、あの幽霊か幻覚が要求して来た、あれの生きた証とは? 生きていたのなら、何らかの記録は残っているはずだ。それが生きた証拠でいいじゃないか。
 それとも、もっと高尚な意味でいいたいのか?
 毎週のテレビで取り上げられている慈善家たちのように?
 彼らが作った設備や救った人間が、その人間が生きていた証だとでも?
 だとしたら、偉人でもなければどうせ忘れ去られる。俺もあのとき飛んでいたら、忘れられるに決まっている。SNSで無神経に俺を巻き込んで記録を積み重ねている奴らは、すでに俺のことなんか忘れているのかもしれない。
 だから、居なくなっても彼らは気にも留めないだろう。気にはしても、ろうそくの火がゆっくりと燃えていつの間にか消えていくみたいに、俺も意識されなくなるうちに消えていくのだろう。母は変わらず金曜にはあの番組を見て嘆息するにちがいない。
 自分の息子は、こうはなってくれなかった、と。悲観するには涙も出ない。どうすることもできなくて、今できることといえば、逆上せる前に風呂から出ることだけ。

続く