14.黒山羊

 夢を見ていた。
 少し前にも同じ風景を見ていたような気がする。じりじりと照りつける陽の光を、緑道に沿って植わっている葉が影を作っている。蝉が生きようと必死に叫んでいる。彼は緑道の植え込みの前に立ちつくしており、その隣に人の気配を感じて横を見下ろした。そこに居たのは、幼い頃の自分の頭頂部。不釣り合いな麦わら帽子をかぶっていて、前を向いていたはずなのに、彼はこっちを見上げていた。彼ははっとして前を向いた。植え込みの中には確か、猫がいたはずだ。白く伸びた猫の死体。「死んじゃってるのよ」と言われても悲しめない自分。幼い頃の記憶の反復。
「いなくなっちゃったの」
 彼の眼の前には、何もなかった。彼を見上げている少年は、感情を持たない顔をして尋ねた。
「悲しい?」
 真っ黒に塗りつぶされた小さな両目が、彼を引き込んだ。彼はその目を見て答える。
「……悲しいだけじゃないんだ」
「どういうこと?」
 それが言葉にできたらどれだけ楽だったんだろう。
「きっと、寂しかったんだ。お前もそうだろ」
 自然と彼は植え込みに向かって踏み出した。歩けている。ずっと、できなかったはずなのに。湿った地面を踏んで、前に出ると景色が真っ白になった。もう一歩の足が前に進もうとすると、ふわりと体の感覚が無くなって、ひっくり返る。自分の足元には空が広がっていて、頭の上には街が見下ろせた。これには思わず彼も息を呑んだ。手を伸ばした瞬間、誰かに取られたような気がして、建物の上によじ登る。彼が立っていたのは、かつて棄てられた屋上遊園地だった。メリーゴーランドも、コーヒーカップも止まっていたのに、100円を入れたら動くライオンのカートだけは彼の方をじっと見つめている。振り返ると、フェンスがあったがそこには彼がペンチで開けた穴も無くなっていた。あぁ、と彼はライオンの方へと近づいた。
「……さよなら、しないとな」
 誰もいない場所に、耳の奥から賑やかな声が聞こえる。子供のはしゃいでいる声、それを迎える柔らかい笑い。いつしか連れて来てもらった思い出。困惑して手を引いてくれたこと、写真に一緒に写っていた笑顔。……あの写真を撮った母。何もかもが美しくて、何もかもがここにあると思っていた。
 でも、それが全てじゃないんだ。俺のいる場所は、ここだけじゃない。
 きっと、そう。

 ぼんやりとした気持ちで彼は目を覚ました。朝6時。起きるには少し早いが、なんとなく身体を起こした。ラジオは止まっていて、音のない部屋を見回した。
「モモセ?」
 ラジオの電池は切れていて、彼はそれを机の上に置いた。とりあえず着替えて、部屋を出る。洗面所に出ても彼女は姿を現さなかった。外にでもいるのだろうか。やけに静かだった。顔を洗い、リビングに出ると母が泣き崩れていたのがついさきほどのことのように思い出されて目を背けた。テーブルの上にグラスが置きっ放しになっている。母はまだ眠っているのだろうか。
「どこだ?」
 小声で呼んでみたけれど、そこには何も現れなかった。からかっているのだろうか。……いや、きっと違う。彼はすぐに何かに気がついて玄関に急いだ。スニーカーのかかとを履きつぶして、鍵だけ片手に飛び出した。階段を降りようとして足がもつれる。もがくように両手を動かして、朝日が照らすアスファルトを駆ける。家を出てすぐの道、いつもは立ち止まる信号の点滅も、今は思い切って突っ切った。車も人も、まだ数は少ない。ぬるい風を切って、自分の息遣いと心臓の音がやけにうるさいのを、時折唾を飲み込んで抑えるようにして進んだ。あともう少しのところで右足のスニーカーが彼の足からすっぽ抜けた。転びそうになったがなんとか踏ん張り、そして一瞬ためらったが彼は片足を置き去りにして角を曲がった。膝に手をついて呼吸を整えてからおそるおそる視界をあげる。
「……っ!」
 目の前にあったのは、真っ白のシートに覆われた建物だった。棄てられたままの廃ビルも、一緒にいた屋上遊園地も、彼の立っている場所からは見えなくなっていた。覆いの手前には、ありきたりな「解体工事のおしらせ」の看板が立っていた。
「モモセ」
 彼は呼んでみた。返事はなかった。なんだかこれまでのことがひどく滑稽に思えてきて、彼はため息とともに笑いを漏らした。
 結局、生き延びたな、俺。
 彼はもう一度だけその建物を見上げた。それで満足だった。深呼吸をしてから、彼はゆっくりと歩き出した。落として行ったスニーカーをきちんと履いて、つま先をとんとんと蹴った。届いたんだろうな。彼は自分の送った手紙をふと思い出して、ラジオの電池は家にあっただろうかと考えながら帰った。

 一週間後。
「え、まって、終わるの早くない?」
「遅すぎ」
「きびしー……ちょっと教えて」
 祖父母の家の和室で、サクマとコマキはテーブルを挟んで向かいに座り、それぞれノートや教科書を広げていた。コマキはシャーペンで自分のこめかみのあたりをとんとんと叩き、目の前の問題に詰まっていた。サクマの方は終わった問題集を閉じて、別の科目のプリント課題を始めていた。
「そういやさ」
 コマキは手を動かしながら切り出す。
「なに」
「俺、メグコさんに聞いたんだ」
「……」
「その、なんか……俺も結構ショックで」
「うん」
「俺さ……ほかには言うなよ? 小学生のとき、ちょっと……いじめっつーか、からかいがひどくてさ」
 サクマも黙々と作業をしながら聞いていたのだが、慎重に話し始めたコマキに顔を上げた。彼は戸惑ったような口調だったが、平然を装って続けた。
「そんとき、メグコさんにいろいろ言ってもらってたんだ。負けんなとか、絶対大丈夫だからって」
「……そんな人のそんな一面知って、俺が嫌?」
「そうじゃなくてさ。あの人が俺に負けんなってずっと言ってたの……自分のことがあったからなのかなぁって。てか、サクマはなんで知ってたんだ、あのこと」
「さぁ……」
 サクマは誰にも彼女と、彼女のことに関することを話すことはなかった。コマキは何度か、どうして彼がアイウチメグコのことを知っているのかということを気にしていたが、そのたびに彼は「あのとき言っただろ」としか答えなかった。そうしていくうちに、コマキもあまり聞くことはなくなった。二人の仲はなんだか奇妙だった。それはお互いに思っていたことだったが、それでもこうして残りの夏休みをともにすることがあった。二人はまた自分たちの宿題に取り掛かり、夕方ころになるとコマキは大きく伸びをした。
「そろそろ帰るわ。お邪魔しました」
 店の前までコマキを見送る。祖母がにっこりと笑って、「今度は夕飯でも食べていってね」と言うと彼もありがとうございますと人懐こい表情を見せた。
「あ、ねぇ。ちょっといい?」
 コマキを見送り、店の壁によりかかってサクマは祖母に尋ねる。
「どうしたの?」
「花をさ、買いたいんだ」
「花? 買うの?」
「うん。買う」
「買うって、どうかしたの?」
「ちょっとね……送りたい用があったから」
 祖母はまぁ、と口元に手を当ててにこりとしたが、サクマは眉間に皺を寄せて、「多分、ばあちゃんの思ってることは外れだよ」と言った。

 翌日、彼は花束を片手に墓地に来ていた。街にあるこの墓地で、彼は管理人に墓参りに来たことを告げて、その人物が眠っている場所がどこか教えてもらった。案の定、彼女はそこに眠っていた。大体の場所を教えてもらうと、炎天下の下を歩いた。管理人は彼の持っている花束を怪訝に見たものの、表情に出しただけだった。そう思われるのも仕方ないと彼もわかっていた。
 彼女の近くにいくと、すでに人が立っていた。そっと彼が近づくと、その人物は振り返った。知らない男だった。男の前には彼女の名前が刻まれた墓石が立っている。男も彼女を訪ねていたようだ。
「こんにちは」
 男は控えめに会釈をした。彼もまたぺこっと首を動かした。
「はじめまして。ムロウといいます。……えっと、そちらは」
「ムロウ?」
 サクマは目を見開いた。すると向こうも「ん?」という顔をした。
「ムロウさんて、あのムロウ? あの、大きい家の?」
「あぁ、それ、実家のこと?」
 ムロウ青年はそう言って人が良さそうに笑う。
「祖父が、ムロウさんにお世話になっているので」
「あぁ、そうだったんですね。……実家には、夏にしか帰らないものだから。君は、この街に?」
「はい。ずっと」
 そうか、とムロウ青年は頷いた。そして彼女の方を向いた。
「早くこの街から抜けたくてね。大学に進むのをきっかけに、逃げたんだ」
「知ってるんですか。この人のこと」
「知ってるもなにも。……同じ学年だったんだ」
 あぁ、そうか。だからあいつは「どこかで見たような」と言っていたのだ。しかし、彼女にとってうろ覚えの男は、彼女のためにここに来ているのだろう。毎年、夏になれば。
「赦されたいって、思ってしまうんだ」
 ムロウ青年は小さくため息をついた。だがすぐに、なんでもないんだ、という顔をした。青年からしてみれば、彼は何も知らないと思っているのだ。彼は目を伏せた。脳裏をよぎったのは、手を後ろに組んで屈託のない笑みを浮かべている彼女の姿だった。恨んじゃいなかったんだろう、最初から。
「赦してる、と思う……ちゃんとここに居たって、覚えていたら」
 サクマは花束を彼女の前に置いた。それは溢れかえりそうなカサブランカと、ひまわりだった。あまりに盛大で、ここにはふさわしくないようにも思えた。青年はサクマの置いた花にぎょっとしたが、彼のうっすらと安堵したような表情を見るとなんだかはっとさせられた。
「君は、知り合いだったの?」
 青年は静かに聞いた。サクマは自分と彼女のことをどう表わそうかと迷った。友人、知人、協力者、自殺未遂者と幽霊。どれもしっくり来なかった。
「同族……とか?」
「家族?」
「いや、なんでもないです。ちょっとした、知り合いです」
 サクマは苦笑を浮かべて、彼女の前で手を合わせた。それはほとんど形式的なもので、彼は彼女に何を伝えようとしていたのかもうまく言葉にできなかった。すぐに彼は手を下ろした。
「じゃあ、失礼します」
 彼は会釈だけすると、すたすたと歩いて墓地を後にした。墓地を出て数歩歩いてから、自分が名乗っていないことに気付いた。戻って名乗るのも気恥ずかしく、一瞬戸惑ったものの歩き出した。腫れぼったい雲の隙間から太陽が差し込んで、彼の肌をじりじりと焼いた。墓地のある坂の道沿いには木が並んでいて、その木陰になるべく入るように彼は熱い地面を下る。木々には蝉が止まって、せわしく鳴いている。彼は歩きながら考えていた。これでよかったんだろう。間違いだとしても、俺は自分で選んで、自分で決めたんだ。誰かのためなんかじゃなくて、自分のため。そう言ったら、あいつは得意げに笑ってみせたんだろうな。
 俺は生きている。明日も、明後日も。その先も。誰かのためになれなくても。意味なんかなくたっても。生き延びたんだから。けれどそれは、決して悲劇的なものではなくなっていた。
 サクマは伸びをしてから、目の前にあったマンホールをひょいとジャンプして、越えた。