13.朝がくる

 8分でサクマは目を開き、9分で体を起こした。モモセはすぐそばで座り込んでいたが、彼が起き上がると同じように立った。
「さっき、電話鳴ってた。おばあちゃんだったよ」
「……言えよ」
 掠れた声でサクマは不機嫌そうに言う。だって、とモモセは唇を尖らせた。すると彼は呆れたように頭を掻き、電話の方へのろのろと歩き始める。留守電のボタンがちかちかと点滅しており、サクマは未だだるそうに受話器を取った。
「ごめん、寝てたんだ」
 祖母が出ると、すぐに彼は電話に出なかった理由を話した。
「うたた寝してたんだ。今日は家に居たくて。夕飯は、家に食べるものがあるから、大丈夫」
 彼は何度かうん、と相槌を繰り返してから受話器を置く。その受話器がとても重いものだったかのように、ふうと溜め息をついた。キッチンのすぐ隣の戸棚に何かレトルト食品でも入っていなかっただろうかと漁ると、カップラーメンとレトルトカレーが置いてあった。食べる気がしないな、と戸を閉めてしまった。食欲なんて湧いてこなかった。
「何か食べたほうがいいよ」
「食べられない」
「こういうときこそ、食べなよ。心もお腹もからっぽだと、もたないよ」
 サクマは振り返ってモモセを睨んだ。余計なことを言うなという目ではあったが、自分が“からっぽ”なのは自分がした行動のせいだということをわかっているので、何も言えなかった。
「お米ある?」
 モモセの言葉に、彼は返事をしなかったものの黙って戸棚の下の方を開けた。大きなポットのような入れ物に、米が大量に入っていた。米を炊いておくくらいは手伝っていたので、戸棚に何があるかくらいは把握していた。
「冷蔵庫見せて」
 するとサクマが半分開けた冷蔵庫の中を、彼女は覗いた。すぐに「もういいよ」と彼女は言って、にこにことして両手を合わせた。
「じゃあ、ちょっとご飯作ろうか。あ、露骨に嫌そうにしないでよ。簡単だし、カレーとかよりはずっと胃にもいいからさ」
「はいはい」
 サクマはゆっくりとした仕草でモモセの指示に従って、米を研ぎ、鍋を出した。米を水に浸ける時間が長く、テーブルの椅子に腰掛けてテレビをつけた。バラエティ番組が流れ、それを二人はつまらなさそうに眺める。モモセは芸能人のとぼけた発言に笑っていたが、サクマは時間が過ぎることだけを待っているだけだった。そして、時間になればまたキッチンの前に立った。
「おかゆ?」
「うん。作ってもらったこと、ない?」
「ばあちゃんには」
 サクマは不器用にもモモセの言った通りに動いた。卵をといたものを入れて、調味料を加える。だんだん匂いがしてくると、少しばかり食欲が湧いてきたような気がした。皿によそって、またテーブルの方に戻った。
「美味しそうじゃん。これね、ママから教わったの。弟がね、風邪ひいたときに作ってあげたの」
 モモセは彼の向かいに座ってそう話した。サクマは彼女をちらりと見てから、手を合わせた。
「……いただきます」
 小さく一口入れると、モモセはどう? と聞いた。彼はどこか気恥ずかしかったのか、何気ないような様子を装った。
「うまいよ」
「よかった」
 モモセはサクマが食べているのをずっと見続けていた。じっと見られるのがむず痒かったのか、なんだよ、と苦笑する。なんでもない、とモモセはそのたびにくすっとした。
 食べ終わって、サクマは「ごちそうさま」とつぶやいた。そして、空になった皿を前に、頰を掻く。
「……ありがとな」
 モモセは目をぱちくりさせた。そして、優しく微笑んだ。その表情が彼には不思議と懐かしいような、そんな気分になった。どうしてだろうか。
「ポッケ、写真入れっぱだよ」
 ふとモモセがそう言った。サクマはズボンのポケットから二つに折りたたんだ写真を開いた。父親の写真。どこに行っても、もう会えることのない人物となってしまった。知らないことが、時間が、積み重なり過ぎた。
「勝手に死にやがって」
 乱暴な言葉を吐いたつもりなのに、彼の頰を涙がすーっと伝う。彼自身も驚いていた。涙は頰から、テーブルの上に落ちる。
 俺は、“愛されてた”ことを知りたかったのだろうか。父親に会って、「大丈夫、愛している」と言われたかったのだろうか。そう言って、抱きしめてほしかったのだろうか。それもあったかもしれない。でも、それよりも、ずっとからっぽだった心を、どうにか埋め合わせたかった。心は穴が空いたままのはずだった。なのにもう、穴は塞がっていた。彼の手元で穏やかな顔をしている彼の笑みも、幼い頃の自分と一緒にいた彼も、同じ表情をしていたことに気付いてしまった。
「サクマ……?」
「愛してるとか言ってほしかったわけじゃないんだ」
 ただ、伝えたかっただけだ。思い出の中にしか居なかったけれど、最期のときかもしれないってときにあんたを思い出したんだって。どんなに忘れたりごまかしたりしようとしても、手放せない思い出だったんだって。
 サクマは鼻をすすり、目元を拭った。
 そして、笑った。

 食べたものを片付け、風呂から出てくると彼は携帯を久しぶりに開いた。コマキから連絡があった。アイウチメグコについてのことだった。彼がモモセのことを話してからも不通であったが、どうしたのかとメッセージを開いたところ、アイウチメグコはすっかり元に戻っているとのことだった。赦された、と思ったのだろう。コマキは、彼が来てから少しして元気を取り戻したこととそれへの感謝を伝えてきた。感謝されることだろうかとサクマは首をかしげるものの、モモセにコマキからのメッセージを見せた。モモセは「そっかぁ」とどこか遠い目をしていた。
 サクマはそれから珍しく携帯の画面を長く見ていた。途中でラジオをつけ始め、モモセはそれに耳を傾けていたので、むやみに彼の行動に首を突っ込むことはしなかった。彼のベッドに我が物顔で寝っ転がって、ラジオをまじまじと見つめる。そうしてぼんやりしていると、彼は突然立ち上がってクローゼットを開けて大きな鞄を出した。
「どこか行くの?」
 モモセは顔を上げる。彼はうん、と短く答えた。クローゼットから服を出してハンガーごとベッドに投げ込んだ。モモセはぶつかっても問題は無いが、反射的に避けた。出した服と下着は適当に畳んでその鞄に入れた。そして彼がいつも使っているリュックには教科書やノートを入れ始める。あまりに手際がよく、モモセは彼の行動が不安になった。
「……ねぇ、本当にどこに行くつもりなの?」
「え、なに?」
 彼は聞こえていなかったようで、振り返る。そこにいつも陰鬱とした影はないことに、モモセは気付いた。だから、それ以上は止めて少し違うことを口にした。
「全部は持ちきれなくない?」
「仕方ない。必要なものさえあれば」
 彼は荷物を詰め込み、机の上にリュックに入りきらなかったものを並べた。本、辞書、文房具がわずかにいくつか、置き時計などの細かい雑貨品。服の入った鞄も、リュックも膨れ上がっていて、彼はリビングで適当な紙袋を持ってくると机の上のものを入れる。机の上の物はほとんど姿を消し、部屋に残ったのはこの机の他に空の本棚と、ハンガーがいくつかだった。なんとも言えない開放感に満たされて、彼はベッドに倒れこんだ。心臓が鳴っている。
「もうすぐ戦いになるかもしれない」
 彼は腹の上で自分の両手を組んで言った。
「それなら大丈夫だよ」
 モモセは彼の近くで頬杖をついて微笑む。彼は天井をじっと見つめていた。そしてゆっくり息を吐き出した。モモセは、いつしか彼が、自分は臆病だろうかと言っていたことを思い出した。それはひどく陰鬱で、暗い底に沈み込んだようだったが、今その目は上を向いていた。光が見えている。臆病さを抱えている目かもしれないが、その恐れも前に進もうとしているからこそのものだった。
「ヤギの話、覚えてる?」
 モモセは目を伏せる。
「ヒツジとヤギの」
 彼は目も動かさずに言う。
「そう」
「ヒツジになれない俺たち」
「あたしたちはもしかしたらヒツジかもしれないよ」
「どういうこと」
「あたしたちなんてほんのちっぽけだってこと。あなただって、そう思っていたでしょう。自分なんて、替えのきく人間だって。自分がいなくなったって、誰も覚えていてくれないだろうし……あたしだってそう思ってたよ。自分がいなくなったって、みんななんでもないように生きていく。メグコも」
 モモセは息をついた。なんだか息苦しい。
「その点はあたしたち、ヒツジかもしれない。なのに、ヒツジになるのが怖いんだよ。だからヤギになっちゃった。結局ね、あたしたちの代わりに働いてくれる人もいるし、あたしたちがいなくてもこの世はなんともならないのよ。でもね、あたしたちの人生代わりに背負ってくれる人なんて誰もいないんだよね。誰もサクマに変わってここに寝転がって、戦ってくれる人なんていないんだよなぁって」
「知ってるよ、そんなこと」
 サクマは小さく笑った。そして目を瞑ってもう一度、「わかってる」と呟いた。がちゃっと玄関の方から音がし、彼は目を開ける。
「居てくれる?」
 彼はモモセの方を見た。彼女は頷いた。「行こう」と彼は立ち上がった。
「ただいまぁ」
 間延びした母の声。彼は部屋から出て、母を出迎えた。結構飲んだのだろう、顔は赤くふらついている。
「おかえり、母さん」
「あらぁ、起きてたの」
「母さん、ちょっといい?」
「なぁに、明日じゃだめ?」
「今がいいんだ」
 息子の言葉に母も面倒臭そうに手をひらひらとさせた。だが、ふと目があってしまい、母は渋々リビングに向かって歩く。彼は母の後に続き、水の入ったグラスを出した。母はそれを一気に飲んで、用事は何かと聞いた。彼は向かいに座って、テーブルの上で手を組んだ。
「ここを出たいんだ」
 母はグラスを倒しそうになった。酔いは一気に醒め、目を見開く。化粧をし、着飾った姿はすぐに“母親”へと変身する。
「なによ、急に。出てくって、どこにいくのよ」
「ばあちゃんの家にいく」
「必要ないでしょ、なんでそんなこと言い出すのよ。おじいちゃんに何か言われたの」
 母の言葉はだんだんと強くなってくる。彼は自分の手元へと視線を落とした。ぐっと堪えて言葉を選んだ。
「そうじゃないんだ」
「じゃあ何よ!」
 母がテーブルを叩いた。びくりと手が動いた。しばらく彼は自分の手を見つめてから顔を上げた。
「俺は、自分がいると母さんが辛いんだって思って、自分も辛くなる」
「……なに思いこんでるのよ。私は、あなたのためって思って」
「俺のために父親になる人を探してるの? それとも、母さんが幸せになりたいから誰かを探してるの?」
 彼は口調こそ穏やかだったが、その言葉は空気を切るような鋭さを持っていた。母は口をつぐんだ。
「母さんには悪いけど、俺、このままだとダメになる」
「親に向かって何言うのよ! 誰が育ててきたと思うの!」
 母はかっとなって椅子を蹴って立ち上がった。そして彼を見下ろした。彼の方は、黙って母を見つめていた。母は拳に力が入っていたものの、彼が自分の眼球の裏側まで貫こうとする視線をぶつけてきたので、逆に力が抜けてしまった。
「なんでっ、私はまた離れられるのよっ!」
 母はそう言うと床に座り込んでしまった。サクマは母の肩をそっと抱いた。
「ごめん、母さん。でも、母さんはもっと自分の幸せとか、見つけられると思うんだ」
「あんたに決められた覚えはないわよ、偉そうに」
「ごめんね。母さんのために一緒に居てあげられる息子じゃなくて。明日には、荷物を持って行くから。おやすみ」
 サクマは立ち上がって、部屋に戻った。母が何か言っているのが聞こえたが、聞きに戻ろうとはしなかった。部屋の扉によりかかって、大きなため息をついた。
「母さん、どうしてる?」
「……お水飲んでる」
 モモセが扉をすり抜けて顔を出す。そっか、とベッドに寝転がった。眠れる気がしなかったが、とりあえず部屋の電気を消してラジオをつけた。いつもの番組はちょうど最近の曲がかかっていた。
 これが正しいことだとは思っていなかった。変わらずこの部屋で眠って、起きて、時折抱えきれない重たい感情を抱えて過ごす。誰かのために生きていかなくちゃいけない、なんてプレッシャーに押しつぶされて、なんとか息をしていく。それが普通の生き方なのかもしれない。そうすればいつか新しい“父親”が来るかもしれない。
 けれどこのまま、なんて嫌だった。自分は誰かのために生きるなんてまっぴらごめんだ。俺に代わって誰かのために生きてくれる“サクマヒイラギ”という人間はどこにもいないのだ。
「なんだか、疲れたな」
 彼は独り言のように言った。
「いろんなことが変わったね。全部、サクマが変えたんだよ」
「ちっちゃいことだ」
「サクマにとっては大きなことだよ。……あのさ、ずっとサクマって呼んでたけどさ、名前で呼んでもいい?」
「なんで」
「だってこの家、サクマは二人いるでしょ? おばあちゃんたちみたいに、ヒイって呼べばいい?」
「やめろ……ヒイラギでいい」
 彼は枕に顔を埋める。モモセはぱっと顔を明るくさせて、「ヒイラギ」と意味もなく呼んでみた。
「冬生まれ?」
「そう」
「かっこいいね」
「とげとげしてて、あんまり好きじゃない」
「そうかなぁ」
 モモセは話しているうちになんだか笑いがこみ上げてきた。今更になってこんな、会ってすぐの人間が交わすような会話をするものだろうかと。
「……もう寝るから」
「うん。おやすみ、ヒイラギ」
 モモセはラジオに耳を傾ける。夜の一時。お便りのコーナーになる。
「では、一時になりましたのでいつものコーナー、“普段は言えないこと”。こんな深夜だからこそ言いたいこと、言えちゃうこと、なんでも募集しております。さてさっそく読んでいきましょうかね。ラジオネーム、黒山羊さんからです。“リコさんこんばんは”、はいこんばんはー。“いつもリコさんの番組を付けて寝ています”、えーほんと? 嬉しいですね。高校生の方ですって。まだ起きてるのかな? 夜更かしし過ぎないようにしてくださいね」
「……! これって」
 モモセはサクマの方を見たが、規則的な寝息だけが聞こえる。モモセは目を大きく見開いてすぐにラジオに集中する。
「さてさて、“僕が普段は言えないこと。それは、感謝の言葉です。その子は結構夜更かしなので、聞いてるかもしれないです。その子に言いたいと思います。最初は鬱陶しくて、どうして相手なんかしなくちゃいけないんだろうと思っていました。だけど、君と一緒に居て、普段は誰にも話さないことを話して、自分のことを少しだけ、考えることができました。君が隣にいてくれたから、僕は立って歩いていけました。ありがとう。君に、素敵な朝が訪れますように”……素敵ですね。曲のリクエストも来ています。黒山羊さんのお友達さん、聞いてくれているといいですね。私もこの曲大好きなんです。それじゃ、聞いてください」
 ギターの優しい音が流れてくる。モモセはその音楽と、そこに込められたメッセージのひとつひとつに聞き入っていた。曲が終わり、彼女は眠っている彼の顔を覗き込んだ。
「不器用め」
 いたずらっぽく笑ってみるが、すぐに彼女は優しく微笑んだ。
「あたしの方こそ、ありがとね」
 彼女は寝顔を見守っていたが、何かに引き寄せられるように窓をすり抜けた。外はぽつぽつと街灯が灯っているだけで、静かだった。アパート上空へと泳いで、街の一部を見渡す。彼女は先ほど聞いた曲を鼻歌で適当に歌った。全てが彼女の下にあった。好きなように歌い、好きなように宙を泳いで、そして満足するとアパートの一番上に寝転がった。足を投げ出して、空に向かってくすくすと肩を揺らして笑う。
「……あ」
 空が白くなっていく。彼女は体を起こして、朝日がやってくるのを待った。遠い遠い方からやってきた光は眩しく、それでも彼女はそれを浴びようと体を目一杯伸ばした。
「あたし、ここに居たんだ」
 彼女は叫んだ。こんなにわくわくして朝を迎えるなんて、いつぶりだったのだろう。朝の光が、彼女の足元に触れる。両手を広げて、光を抱きしめる。あたたかい。それがわかった瞬間、彼女の両目からぱらりとわずかな雫があふれた。自然と溢れた涙に驚いたものの、彼女は大声を出して笑った。

続く