12.ねむり

 バス停を降りて歩くこと数分、峰診療所はそこにあった。閑静な住宅街の中にあったそれはこじんまりとしていて、かつての母が写っていた写真の背景とどことなく被る。写真よりは壁も黄色や茶色がかっていて、年期を感じる。扉は閉めきっていて、人の気配がしない。サクマは静かにその診療所に近付いた。扉には休診日が記されていた。
「あちゃー」
 後ろでモモセが口に手を当てた。今日は休診日らしい。インターネットで検索したときには開業のはずだった。来るな、ってことだろうか。サクマは何が変わることもないのに、休診日のその文字をまじまじと眺めていた。突き放された。俺には恨むことすら、させてくれない。
「どうするの?」
「帰るか」
「え、いいの? ここまで来たのに?」
「いい」
 診療所の扉に手をかけると、鍵がかかっているため少し動いただけでそれ以上は拒んだ。サクマはその扉の取っ手に両手をかける。
 ここには、記憶がある。俺の母親が、俺を知る前に触れた場所。母親がまだ幸せだったころの記憶。あいつがいる記憶。写真の中に置き去りにされたあの記憶は、ここにも染み付いているにちがいない。
 両手に力が入ってきて、腹の底がじりじりと燃えるような感覚になった。壊したい。それは、衝動だった。目の前にあるものががらがらと音を立てて崩れてしまえばいい。拳を叩きつけて、扉のガラスもなにもかも割れて、その破片が俺に刺さればいい。こびりついた血が、そのまま炎になって何もかも燃やしてしまえればいい。目の前の記憶も灰となって、消え失せてしまえ。その灰と一緒に俺も消えてしまえれば、なにもかもが「幸福」だったかもしれない。この目の前のドアノブをもぎ取って……。
「患者さん?」
 後ろから突然聞こえた声に、サクマははっと我に返った。モモセの声ではない。男の声だ。ドアノブにかけていた手をとっさに引っ込め、彼は振り返った。二十代くらいの男が立っていた。紺色のカッターシャツを着ており、男はサクマを見ると大きくまばたきを繰り返した。サクマはサクマで、自分の頭の中を見透かされないように視線を迷わせた。
「えっと……」
「ごめんね、今日休診日なんだよ。夏季休業で、いつもと違うんだ」
 男は頭を掻いた。関係のある人間なのだろうか。医者というような雰囲気ではなさそうだ。
「大丈夫? どこか悪い?」
「いえ……そういうわけじゃ……」
 サクマもしどろもどろになる。モモセがこっそりと「正直に言ったら?」と耳打ちする。それは答えられない。はるばる遠くから父親に会いに来た、というのはなんだか不自然だろう。
「……人に、会いに来たんです」
「人? ここ、入院するような場所じゃないよ?」
「そうじゃなくて、先生に会いに来たんです」
 訝しげにする男に、サクマは早口になって答えた。あぁ、そういうことか、と男も頷いた。
「でも、休診日だったの、忘れてたんで。帰ります」
「どの人かな? 名前とかわかる?」
「……ミネ」
 サクマはその名前を初めて口にした。自分をよく知っていたはずの名前だ。その一文字一文字にさえ意味があるように重たくなっていた。
「ミネ マサミチ……先生」
 たどたどしく答えた彼の言葉を聞くなり、男は目を見開いた。知っているのだろうが、どうしてここまで驚いているのだろうか。サクマは身構える。男は頭を掻いて困ってように笑ってみせた。その仕草にどことなく違和感を感じた。
「……会いたい?」
「……できるなら」
「わかった。おいで、案内するよ」
 男は歩き出す。ついていくかどうか迷った。何かあるのかもしれない、と。歩くのを戸惑っていると、男はあぁ、と何か納得したようだった。
「そりゃ得体の知れない人にはついていけないよね。僕はミネ カオル。君の言っている峰政道の息子です」

 峰、という表札を掲げた家は、診療所からすぐのところにあった。ごくごく普通の一軒家で、サクマはミネマサミチに向かい合っていた。
「親父とは、知り合い?」
「……えぇ」
 サクマは合わせていた両手を膝の上に乗せた。
 彼の目の前にいたミネマサミチは、仏壇に飾られた写真の姿だった。線香の匂いが部屋に充満する。和室の隅に置かれたそれは、やけに存在感を放っていて、しかしサクマはそれを見たときには一瞬呆然としただけで、悲しいとか怒りとか、そうした雑多な感情はやって来なかった。
「ごめんね、今母さんも出かけて。冷たいお茶でいいかな?」
 彼の“息子”、ミネカオルはとても親しげであった。キッチンのあたりで冷蔵庫を開けたりしている。
「大丈夫です……すぐ帰りますから」
「いいんだ。久しぶりに親父のこと話せる人がいるのも、なんだか嬉しいから」
「……先生は、いつ」
「3年前にね。がんでさ」
 おいで、と呼ばれてサクマは言われるがままにリビングの方へ向かった。テーブルやソファもごくごく普通であるかもしれないが、戸棚の近くには家族写真らしきものが飾られていたり、誰かの賞状が額縁に入れられて壁に飾られている。居心地が悪い。早く帰りたいのは本心だ。カオルはにこりと笑ってサクマの向かいに座った。
「サクマに似てるかも」
 隣に腰掛け、両手で頬杖をついていたモモセがそうぼそりと言ったので、サクマはあまり顔を見られたくないと誤魔化すように出された飲み物を飲むふりをして俯いた。
「診療所に来たことが?」
 カオルはそんな彼を気にすることもなく質問を重ねる。話せば話すたびに“ぼろ”が出そうで怖かったが、サクマは曖昧に答えた。
「えぇ……前に、小さいころ……」
「そうだったんだ……親父が死んだことは?」
「いえ……その、ふと思い出して。たまたまこのあたりを通ったので、母に教えてもらったんです」
 これ以上会話をしたくない。サクマは視線をそらす。
「そうだったんだ……ありがとう、わざわざ来てくれて。親父も喜んでるよ」
「そう、ですかね……」
 沈黙が流れる。サクマは時間を気にしたふりをして、立ち上がる。
「じゃあ……帰ります。ありがとうございました。お茶も、ごちそうさまでした」
「いいよ。あ、駅まで送ろうか。バスに乗って来たんだろう?」
「でも……」
「気にしないで。帰りがけに寄りたいところあるから。車出すよ」
 カオルは身軽に立ち上がると、車の鍵を取った。「敵わないね」とモモセが肩を竦める。車内でまた会話をするのだろうかと思うとサクマは気が重くなった。

 カオルが運転する車の助手席に座り込んだサクマは、リュックを抱えるようにしていた。有名なロックバンドのヒット曲が流れていて、ときおりカオルはそれに合わせて首を動かす。
「サクマくんは、今高校生?」
「はい」
「そっかー。僕、今大学生なんだ。4年生」
「……医大?」
「一応ね。浪人してようやく入れたけど、結局親父と一緒に働くことはできなかったよ」
 触れてはいけないことを言ってしまったかと思ったが、カオルはあっけらかんとしていた。過ぎてしまったことをくよくよと振り返らないというような性格に思えた。
「ここだけの話にしてよ? 俺の親父、確かに立派な医者だったかもしれないけどさ、家じゃどヘタレだったんだ。母さんには頭ぺこぺこ下げてて」
 はは、とカオルはそんなことを冗談ぽく話していた。サクマは特に何かを言うことはせず、へぇとか、そうだったんですね、というような相槌ばかり打っていった。喉の奥がむずむずする感覚がしていたが、サクマはじっと堪えていた。きっと吐き出してしまったら楽なのだろう。もしかしたら、知っているのかもしれない。ミネマサミチは浮気をしていた。ミネカオルには腹の違うきょうだいがいる。大学生になり、当人はすでに口無しなのだから、もしかしたら何かは耳に入っているかもしれない。
 カオルはサクマに、好きな音楽は何かとか、高校はどんななのかとか、そうした世間話も持ち込んできた。そうして会話がなんとか繋がって、駅前に着いたのは「ようやく」であった。ロータリーの端の方で車を止めてもらい、サクマは降りた。カオルは窓から顔を出した。
「ありがとうございました」
 リュックを背負い、サクマは頭を下げた。
「いいよ、こちらこそ、来てくれてありがとね。帰り、気をつけて」
「はい」
「……あのさ、変なこと言っていい?」
 カオルは逡巡してから、言った。
「最初に君見た時さ、僕に似てるなって思ったんだよね」
「え?」
「よくわからないんだけどさ……そういう感じがしたんだ。他人に思えないっていうのかな。……だからさ、また来てよ」
「……はい」
 サクマは頷いた。それが彼にできる精一杯の仕草だった。カオルは再びにこりと笑った。一瞬だが、その笑みが写真にあった男の姿とかぶり、サクマはまばたきをした。その残像はすぐさま消えた。サクマは軽く会釈をして改札の方へと歩き出した。「まだ見送ってくれてるよ」と、改札を通ったときにモモセが後ろを見て言った。サクマは振り返らなかった。

 自宅に戻ると、サクマはそのまま部屋のベッドに倒れこんだ。リュックは床に放り投げ、うつぶせになって顔を埋める。何も考えることができなかった。ぽっかりと胸に穴が空いたような感覚。空いた穴が痛む。
「サクマ、大丈夫?」
 優しい声でモモセが声をかけた。彼は答えなかった。眠っているように黙りこくっていた。
「痛い?」
「……うん」
 うつぶせのままサクマはなんとか言った。今にも消え入りそうだ。
「大丈夫じゃ、ないよね。あたし、部屋出てた方がいい? 少し眠る?」
 彼はまた答えなかった。モモセは長い髪をくるくると自分の指に絡めて、もどかしそうに部屋を見渡す。ラジオをつけてやりたいと思ったのだが、自分は触れることができない。ラジオでもつけたら、彼も少しは眠れるのではないか。だが、結局それも彼に言わなければできないので、モモセは彼の隣に腰掛けるようにしてじっとしていた。
 モモセは不思議だった。サクマは、カオルに打ち明けることもしなかったし、遺影に対して悲しんだり、怒る表情を微塵も見せなかった。電車でも虚ろな表情で運ばれているだけだった。帰ってきても、この調子だ。むしろ何か感情を表してくれた方が彼女もずっと気が楽なのだ。長く移動していたので、疲れているのかもしれないが、今回の訪問は意味はあったのだろうか。彼の決意は、彼の長年抱えていた感情は?
 モモセは膝を抱え、顔を横にしてうつぶせのままの彼を見やる。少し眠ったほうがいいかもしれない。その方がいいのかもしれない。一度頭が空っぽになったほうがいい。このまま静かに破裂してしまいそうな不安を感じる。それはとても危険だ、とモモセは直感的にわかっていた。
 一方で、モモセ自身、なんだか自分自身に違和感を覚えていた。ミネマサミチの遺影を見てからだ。サクマの肩越しにあったのはただの写真ではない。男自身の顔には笑顔が貼り付けられていたが、べったりと塗られていたのは“死”だ。そしてそれを、自身も経験していたはずだ。そう、自分の顔にも“死”が塗り込められている。なのに、自分はこうして一人の高校生を限定としてはいるが、人と会話をして、ラジオを聞いて、テレビに向かって笑い、自分のいなくなってからの世界を覗き込んでいる。自分の親友だった人物の前に現れて、試すようなこともした。そこに自分が生きていた証を見出そうとしていた。生きていた証はみていたかった。だが、なぜ自分が長年あの捨てられた屋上遊園地に居座り続けていたのか、そして、今もこうして自分が彼の隣にいるのか。これ以上自分が彼の隣にいる意味は何なのか、わからなくなっていた。今、彼の隣にいてやってほしいのは、自分ではなく、彼の父親なのに。
 モモセは顔を上げて窓を見つめる。だんだんと日が落ちていく。耳をすませると、規則的な呼吸が聞こえてほっとした。少しすると玄関ががちゃりと音を立てて、彼の母親が帰ってきた。モモセは扉をじっと見つめた。足音は部屋の前を通り過ぎ、「あれ」と母親が声を上げる。また足音が近づいてくると、ノックもせずに彼女はサクマの部屋を開けた。電気もつけずに突っ伏したままの息子を見るなり、母は眉をしかめた。
「ちょっと、お風呂入ってないのにそれはやめてちょうだい」
 棘のある口調に、モモセはむっとする。あなたの息子さんが今日どんなことを経験して、どんなことを抱えて、どんなことを感じているのか、あなたは何も知らないじゃないですか。
「サクマ、起きられる? ママ、帰ってきたよ」
 モモセもそっと起こそうとする。サクマは小さく唸るような返事をした。
「ちょっと! なに、具合でも悪いわけ?」
「……へいき」
 けだるそうにサクマは起き上がった。目元を強く擦って、彼は床に放り投げたままのリュックを机の上に乗せた。
「おかえり」
「ねぇ、今から外食しない?」
 彼の母親はそう言った。サクマもきょとんとした顔を向ける。彼女は少女のような笑みで続けた。
「この間言った人、いるでしょう? やっぱり、あなたとも話しがしたいって言ってくれてね。今、下に車を停めてくれてね……」
 やめてよ、と口から言葉が溢れそうだったのをモモセはぐっと堪える。今、何かを言ってもサクマを刺激するだけだ、と。それに母親にモモセは見えない。それで自分の言葉にサクマが反応してしまっても、母親は彼を不審に思うだろう。ただ、どうしてこうも間が悪いのだろう、と彼女は苦々しく髪をぐしゃぐしゃにかき回した。
「……今日は、ちょっと……」
「でも、待たせちゃってるのよ。いい?」
 ほら、と母親は今すぐにでも靴を履くように急かす。サクマは動けそうになかった。その場に倒れこんでしまいそうなほど、彼は弱っていて細くなっているようにモモセの目に映った。
「行かなくていいんだよ」
 モモセは言った。サクマは彼女を振り返った。悲しげだった。
「ママのために、行く必要なんかないんだよ」
 彼女はもう一度ゆっくりと話した。サクマは下を向いた。口は少し開いていて、何を言おうか迷っているようだった。
「どうかしたの」
 と母親は彼の顔を覗き込む。サクマは首を横に振る。
「……ごめん、具合悪くて」
「あら?」
「だから、母さんだけ行ってよ。……じいちゃんに、迎えに来てもらって、二人のとこでご飯、もらうから」
「そう……私からも連絡入れておくから。いい? 安静にしてるのよ。残念だけど、向こうにはまた今度って伝えておくわね」
「そうしてよ」
 サクマは部屋に取り残され、母親は足早に出て行った。暗くなった部屋で彼は立ち尽くしていた。見ていられなかったモモセは、彼の隣を通り過ぎ、扉を突き抜けて外に走り出した。外に出ると、駐車場から外れたあたりに車が停まっており、彼の母親が車に向かって歩いていた。
「人の気も知らないで!」
 彼女は車に向かって叫んだ。腹の底から自分の苛立ちをぶつけるように、吐き捨てた。
「なんで一緒にいてあげないのよ! あなたしかいないのに! なんでよ! 本当にあの子の目を見て本心から何か言ってよ! 抱きしめてあげてよ、あなたしかできないんだから……できないんだから……」
 彼女の声はだんだんと小さくなっていき、そして、誰も彼女の言葉を聞くことのできる耳はどこにもなく、車は遠くへと去っていく。何かを蹴りたい気分だったが、彼女はそのままサクマの部屋に戻った。すると彼は、今度は床に倒れこんでいた。慌てて彼女が近寄ると、彼は半分目を開けてぼーっとしていた。
「眠るなら、ベッドがいいよ」
「……なんでかな」
 サクマは黒目をわずかに動かした。
「死にたいとは思えないんだ」
「正常だよ、それ。おじいちゃんたちに連絡しないの?」
「いい……」
 彼は自分の手のひらを目の前で広げてみせた。暗がりではあるが、その輪郭はくっきりと浮かび上がっていて、その指先に意識を集中させた。
「俺は、何を探していたんだろう」
 モモセは戸惑った。開きかけた口を一度閉じてから、やはりともう一度開く。
「……愛されてるってこと、知りたかったんじゃないのかな」
「他に家族がいるのに?」
「そうかもしれない。あなたたちのパパとママは間違ったかもしれない。でも、だからってあなたまでが間違いじゃないはずだよ」
「羨ましかった、あの家。なのに、すごく居心地が悪かった」
 サクマは唐突に言い出した。モモセも無理ないよと頷く。
「愛とか、幸福とか、そういう言葉が、つらい」
「愛されたい?」
「わからない。まったくそうじゃないとは、思ってないけど」
「なんでもかんでも型にはまったものばかりじゃないよ。お金があるとか、家族がちゃんといるとか、友達がいっぱいだとか、毎日笑顔でなんにも苦労がないとか、そういうことだけが幸福じゃないよ、きっと。前にも話したと思うけどさ、いいんだよ、自分のために生きたって。自分が幸せだって思えないのに、誰かの幸せのために身を削るなんてできっこないし、自分が愛されることを知らないのに誰かを愛するなんてさ、結構、無茶振りだよ」
 サクマは黙って聞いていた。そのうち見つめていた手を自分の目元に重ねた。
「10分したら起きるから」
「うん。……ここにいるからね」
 幽霊にこんなことを言われるなんて。そんな冗談でも飛んでくればいいのに。彼は膝を折り曲げて、背中を丸める。胎児が眠っているような姿だった。

続く