11.道中

 祖父母の家で朝食をすませてから、サクマは着替えなどを置きに自宅に戻ることにした。帰ってみると、休みのはずの母は居なかった。ぽっかりと置き去りにされたような家の玄関を見渡したが、帰ってきた形跡はなさそうだ。サクマは着替えを洗濯機に入れて、部屋に戻ってから財布の中身を確認した。電車に乗る金はありそうだ。そして次に携帯を取り出して、写真のフォルダから病院の写っている2人のショットを出して、病院の名前を控えた。
「峰診療所……」
 読み取った病院の名前を声にする。聞いたことがなかった。サクマは椅子に座ると、峰診療所を検索した。この街にはなく、街の近隣にないか調べたが逆に検索件数が多かったため、少し苛立って彼は母親の部屋に向かった。
「なにするの?」
「昔住んでた住所を調べる」
 とはいえもう18年前のことだ。母親が過去のことをそこまで丁寧に保管しているとは思っていなかったものの、他に方法はないと彼は親の部屋に入った。
 親の部屋に入ることは、なんとなく違和感を感じていた。自分が知らない空気があった。
 ベッドの上にはピンクとベージュのクッションが枕元を埋めていて、窓際にはレースのついたカーテンがかかっている。
「かわいいお部屋よね」
 モモセはそう言った。そういえば、一度入ったことがあると言っていたか。サクマは机の引き出しを開けた。日記をつけるような几帳面な人ではなかったので、日々の記録というものはない。しかし、引き出しの中身を探っていると一番下に古い手帳を見つけた。茶の革張りのもので、触るとすこしべたっとしていた。サクマは直感的に、本来は母親のものではないものだ、とわかった。この手帳の持ち主は、別の人間だ。
「これも古いね」
 モモセが隣で言い、サクマは机の上に手帳を置くと指先だけで開いた。くたびれた紙はやけに重たい。最初のページに書かれていた年は18年前のものだった。鉛筆で書かれた跡はかすれている。毎月ごとに細かく人の名前と時間が書かれてあり、それが何を意味するのかもサクマたちは顔を見合わせて察した。
「どうして、これをあなたのママが……?」
「何か寄越せって言ったんじゃないか。あるいは……勝手に持ち出したか」
 どちらにしてもありえなくはない。彼は肝心のことを知るために、一番後ろのページを見た。ここに持ち主の名前や何かしらのことを……もしその持ち主が紛失に備えて几帳面ならば……書いている可能性が高い。

“峰診療所”

 住所もその名前の隣に書いてあった。彼はそれを携帯のカメラで撮影してメモ代わりにした。それ以上見ることはやめてしまおうとしたとき、手帳から何かが落ちた。モモセが「あ」とつぶやき、サクマも仕方なさそうに拾い上げた。何かのメモだろうかとそれを見ると、彼は目を丸くした。
「うそ……これって」
「……俺?」
 眼鏡をかけた男と、子どもが一緒に写っている写真だった。しかもこれは、サクマも記憶がある。
「あの遊園地だ……」
 男は子どもの手を取り、子どもの方もそれが嬉しそうに男の方へと寄って、こちらに向かって笑いかけている。子ども……サクマの片手には風船が握られている。
「あなたのパパ……あなたに会いに来てたの……?」
「……このときだけだ」
 でも、どうして一緒に行くことになったのかまでは覚えていない。母とは滅多にこられない遊園地に遊びに来られた、という楽しい思い出しか残っていないのだ。
「ね、サクマ。ちょっと聞いていい?」
「なに」
「あなた、パパを探して、それでどうするつもりだったの? 向こうには家族がいるから、会わないって言ってたけど、本当に会うつもりなんてないの?」
「……それは……」
 違う。本当は、一目見たいだなんていう健気な感情じゃない。
「……恨んでたんだ」
 思い出も、懐かしさなんてこれっぽっちも抱いてなんかいなかった。そんなつもりなんかじゃなかった。
 あんたさえいなければ。記憶の中にあるかすれたその人物にサクマは噛み付いていた。そうすれば、俺はいなかった。母さんはまだ楽な人生だった。そう思えば思うほど、金曜日のテレビが嫌いになった。俺は自分を犠牲にして、誰かのために生きてやらなければならないのかと。そんなこと、できっこない。
「あたしに協力させたいのは、自分のお父さんを苦しめるため?」
「……わからない」
 あのとき、自分以外に見ることができない存在を見つけて、サクマは何をしたかったのか、自分自身でもわからなくなっていた。あの男が今、どんな暮らしをしているのかを見たかったのかもしれない。あたたかい家庭に囲まれたその光景を遠くから見て、その恨みをどうにかしてぶつけてやりたいと。せめて……自分が死ぬ前に。
「ねぇ……きっとさ、サクマのパパは、サクマのことを愛してたと思うよ」
 モモセは囁いた。愛、そんな言葉がサクマにはどうしても寒くて、ちっぽけに聞こえてしまっていた。
「なんだよ、愛って」
 サクマは手帳をしまい、引き出しの中を元あったように戻した。モモセは口を噤んでしまった。彼はリビングに向かいながら携帯を操作し、峰診療所の住所を検索してから道順を調べた。早くとも電車で片道2時間程度、それからバスを乗り継ぐ必要があるそうだ。交通費もバカにならない。サクマは貯金で間に合うだろうかと財布を確認した。どうにか行って帰って来られそうだ。
「サクマ、あのさ……」
 リュックに財布とペットボトルの水を入れて準備を淡々と始める彼に、モモセは声をかける。
「あたし、君に協力するよ。でも……本当にそれでサクマが幸せなんだって思えるようなことだって、君自身がちゃんと考えたものにしか、協力したくないから」
「別に、協力なんてもうどうでもいい」
「へ?」
 モモセは気の抜けた声をあげた。サクマはリュックを背負う。
「本当に、見に行くだけ。……それでもう、気が済むと思う」
「気が済むって?」
「わかんないけど、多分、そんな気がする」
 サクマは曖昧に答えた。モモセはそっか、と目を細めた。どこか安心した、という表情だった。

 昼前に乗り込んだ電車は、立っている人がいないくらいの空き具合で、サクマは端のほうに腰掛け向かいの窓から外を眺めていた。中学も高校も自転車で通える距離にあり、電車に乗ることも早々なかった。診療所の最寄駅も、初めて見る名前だった。
「あたし、電車ニガテだったなぁ。一回だけ遊園地に行くってときにさ、遊園地が近くなってくればなるほど、たくさん人が乗ってくるの。そうすると、なんかそれだけで嫌ンなっちゃったんだよね。あたしこれに流されるんだなぁって疲れて。そうやって達観したフリしたけど、結局遊園地はそれはそれで楽しんじゃうんだ」
 モモセは一人そうしゃべっていた。一人分離れた席に老婆が座っていたので、サクマも何も言葉にしなかったが、ふと外をみやるように彼女を見た。苦手と言っていた割には楽しんでいるようだ。
 数駅通過すると、サクマの向かいの席に親子連れらしき少年と母親が乗って来た。少年の方は小学校低学年かそれ以下くらいの年頃か、首からキャラクターものの小物入れ袋を提げている。母親はつばの広い帽子をかぶっており、鞄から水筒を取り出すと自分の子どもに飲ませ始めた。それから少年はまだきちんと床に着かない足をぶらつかせて、母親に嬉々として話を始める。どうやら博物館に行っていたらしい。ふと電車内の広告を見ると、期間限定で恐竜の化石が展示されている博物館の写真があった。あれに行ったのかもしれないな。とサクマはその広告を退屈しのぎに眺めた。本も持って来ていたのだが、なぜだか読む気になれなくて、乗客の様子を横目で伺ったり、車内広告の一字一句をまじまじと読み込むことにしていた。
「夏休みの宿題、これで頑張れるね」
「うん! パパさ、手伝ってくれるかな」
 向かいの親子の会話に耳を澄ませればそんな内容が聞こえて来る。ときおりちぐはぐなことを交わしているのは、息子の方が話に脈絡もなく言葉をどんどん吐き出しているせいだろう。
「なんてことないのかもしれないけどさ、なんだろうなぁ、幸せに見えちゃうんだよね。ああいうの見てると」
 モモセはサクマの近くにべたりと座り込み、両手で頬杖をついて言った。サクマにとっても、「よくあること」程度の光景だったが、その親子の姿がずっと遠くに思えた。自分だけが隔離されてしまって、分厚いガラスの向こうから観察しているような気分だ。あるいは……これが「幸福な」家族な形なんだと示されているような。これから自分が向かう先には、そして自分のこれまでにはそんな形にも、持ち合わせていないことであるということも。だから余計に、彼らを見てはいけないような、そして見せつけられているような。とうとうサクマは視線を自分の膝に落とした。自分のスニーカーのつま先に、なにかがころころと転がってきて止まった。化石を模した玩具だろうか。何気なくサクマはそれを拾いあげた。正面でぽかんとしたままの少年が、「あ」と声をあげる。
「はい」
 サクマは席を立って、少年に差し出した。母親が慌てて、「ありがとうございます」と礼を述べた。
「ありがとう」
 少年もにこにことしていた。サクマはその笑みにうまく答えられず、ぎこちないように口角を上げた。頰の筋肉が攣りそうだ。さっさと席に戻ろうとしたが、少年はその化石の玩具を見せびらかせたがっていた。モモセが少年の前にしゃがんで、「なにこれ、貝殻?」とサクマを見上げる。
「アンモナイトだ」
 反射的に教えてしまい、しまったとすぐに口を噤む。
「知ってる?! さっきね、買ってもらったんだー。博物館行ってね、恐竜見たんだ」
 サクマがモモセではなく、自分に言ったのだと思った少年は顔を輝かせる。サクマも戻るタイミングが掴みづらくなって、「そうなんだ」と適当に頷く。
「恐竜、なにがすき?」
「えっと……プテラノドン、とか」
 サクマは知っている恐竜の名前を口にした。彼も少年くらいのころには恐竜図鑑に目を通した記憶はあり、そこには翼を持ったものもいた、というのがより強烈に印象づいているのだ。
「ぼくね、ティラノサウルスがすき!」
「それならあたしも知ってるなー」
 モモセが口を挟む。「ジュラシックパークでしょ」と。
「ねぇねぇ、おとなり、座ってよ」
 立ったままのサクマに、少年は自分の隣の席をぽんぽんと叩いた。それまで二人のやりとりを暖かく見守っていた少年の母親は、サクマに対して「すみません、断ってくれて大丈夫ですよ」と気遣っていた。しかし目の前でそんなことを言われた少年は少し不機嫌そうに早くと急かした。電車内に彼の鳴き声が響き渡るよりはと、彼は少年の隣に座った。
「夏休みでね、自由研究があるからね、恐竜のことたくさん書くんだ」
「そうなんだ」
「でね、ティラノサウルスの絵を描くんだ。パパにも手伝ってもらってね、それでみんなに自慢するんだ」
 少年は話しているうちにだんだん興奮してきたのか、声が大きくなっていく。それを母親がやんわりと注意をし、
「中学生の方?」
 とついでのようにサクマに尋ねた。隣でモモセが笑ったのを恨めしそうにするものの、何事もないように、
「高校生です」
 と訂正する。向こうもあ、と気まずそうにしてからすみませんと謝る。そこまで気にしていることではなかったので、サクマも「一年なんで、よく言われます」と返す。
「夏休みですもんね」
 昼間から電車に、それも一人で乗っていることに母親はそんな理由をサクマに取り付けた。
「どこいくの?」
 という少年の質問に、サクマは降りる駅の名前を伝えた。少年は知らなかったものの、母親は知っていたらしく、
「結構遠いですよね」
 と心配そうにした。
「大丈夫です」
 なにが大丈夫なのかだなんて自分でもわからなかったが、心配そうにされるとそう言ってしまう。そうしているうちに、この親子連れが降りる駅が近づいてきたらしく、母親が少年に化石の玩具をしまうように急かした。
「ばいばーい」
 少年は母親のあとをついていきながら、電車が走り出すまでサクマに手を振っていた。母親のほうもぺこりと頭を下げた。サクマも何度か首を動かして、少年には手を振り返した。どっと力が抜けて、サクマは深く背もたれに寄りかかった。
「いいお兄ちゃんだったじゃん」
 モモセは少年が座っていた席で膝を抱える。うるさい、と首を横に振る。そして目を瞑った。
「着いたら起こしてあげる」
 サクマはこくりと首を動かしてうつむく。あんなに遠い存在だった親子連れと会話をしたのだ。そこまで近づくには、サクマにとっては数時間ただ座って駅に到着するよりも労力を要したことだった。だが、少年はそうでもなかったみたいだ。瞼の裏で、自分の幼い頃の写真を思い出してしまう。屋上の遊園地ではしゃいでいたあのころの自分は、いまよりはだいぶ「マシ」だったのだろうか。そして、いつからこんなに屈折してものを見てしまうようになったのだろう。
 あの男を見れば、それだけで気が済むと言った。でも、本当は恨んでもいた。それは俺をこんなにしてしまったのはあいつのせいだと、勝手に責任をなすりつけていたから。実際は違うのかもしれない。こうなったのは俺自身だと、頭の隅ではわかっているものの、そうだと思いたくはなかった。恨み言の一つや二つ、言ってもバチは当たらないだろう。でも、何を言う? 誰かと一緒にいることも、誰かのためになにかをしなくちゃいけないことも、なにもかも嫌になって、飛び降りそうになったのもあんたのせいだとでも言えばいいのだろうか。そんなこと、相手にとっては関係のない話だろうに。
 母も不幸だと思っていたが、あいつも十分に不幸なんだろうな。そう思えば、自分のことなんか、よけいにくだらなくて、禍々しいものになっていた。

 モモセが起こす前に、乗り換え駅の数駅前で目を覚ました。気がつけば、車内にも乗客は増えており、隣にも人が座っていた。モモセは近くのドアに立っていて、外を眺めている。サクマは小さなあくびをしてから立ち上がった。来たことのない駅だった。自分の家の最寄り駅にくらべて、ホームがいくつかあり、次に乗る電車はどれかと不安そうな足取りで駅構内を歩いた。
 次に乗った電車では座れることもなく、隅の方に立ってぼんやりと外を眺めていた。そうしてようやくたどり着いた駅は、彼の町の最寄り駅よりは規模も大きかった。出口がいくつかあり、それぞれにロータリーがあった。改札を抜けてから彼は周辺の案内図の前で立ち止まった。
「すみません」
 後ろから声をかけられ、反射的に振り返ってしまう。小学校高学年か、中学生くらいだろうか。サクマより少し年下くらいの少年が、不安そうな表情をしていた。傍らにはスーツケースを立てかけていて、持ち手には帽子を引っ掛けている。地図を見たいのだろうかと、サクマは数歩ずれる。それから自分のメモを見返して、どのバスに乗ればいいのか確認した。行き先はわかっているので、ロータリーだけ探せれば問題なさそうだ。
「これ、中央体育館に行くにはどれ乗ればいいんすかね?」
 自分に聞いているのだろうか。少年は地図を見上げながら聞いてきた。
「俺もここ初めて来るから」
「あ、そうですよね、すみません」
 向こうは照れくさそうに笑って、それから地図をたどる。サクマは手元のメモを確認して、自分が向かうロータリーを見つけた。東口から行けるようだ。時間を調べていなかったな、と自分のミスに内心舌打ちをしつつ、その場を去ろうとした。まだ少年は中央体育館を探しているようだ。どうにかなるだろう、とサクマは東口に出て行く。
「あの子、大丈夫かなあ」
 サクマの後をついてくるモモセがそう呟く。
「かまってる暇ないだろ」
 ロータリーにはすでにバスが停まっていて、サクマは早足で近づく。しかしバスはエンジン音を上げ、ビーっと扉がしまった。そしてゆっくりと発車してしまった。早足になっていた彼は盛大にため息をついた。
「どんまい。またすぐ来るかもよ」
 モモセが励ますようににこりと笑う。夏の日差しを防げる屋根はあったものの、暑いのには変わりない。早く来ないものかと時刻表を確認してから、自身の腕時計を見やる。次のバスまで15分とのことだった。サクマの知っている中では「すぐ」の範囲内だったが、それでも15分もここで待っていなければならないのかと気が重い。とはいえ、ここまで来たのだから、今更引き返そうとも微塵も思っていなかった。バスは発車したばかりだからか、ロータリーにはサクマ以外誰もいなかった。
「なんか、遠いような近いような、って感じだよね。2時間ちょっとで行けちゃうんだもの」
 モモセは不思議、と言った。
「この世にいりゃどいつもあっという間だろ」
「そりゃそうだ。今のはいいジョークだよ」
 嫌味のつもりだったのだが、モモセは声を上げて笑った。アイウチメグコの家を訪ね、モモセのことを代弁してから、モモセ自身もあの日のことを蒸し返すことはしなかった。それからどうなったのかであるとか、様子を見に行って欲しいとも聞くこともなく、ただ、もう自分のやりたいことは終わったから、今度はサクマのやりたいことを聞かせて欲しいとしつこく聞いてきただけだった。もう関わるつもりはなかった。アイウチメグコとも、それこそコマキとも。だが、時々脳裏をよぎってしまう。
「帰ったら、コマキに……」
「あ、さっきの人だ!」
 モモセに言いかけたところで遮られ、彼はとっさに口をつぐんだ。先ほど聞き覚えのある声だ。聞こえないようにサクマは小さく舌打ちをした。モモセは「あ」とスーツケースの少年を指差した。
「バス、いつですか?」
「あと10分くらい」
「ありがとうございますー。いやぁ、奇遇ですね」
 スーツケースの少年はにこにこと彼の隣に立ち、スーツケースに寄りかかる。その馴れ馴れしい態度にサクマは嫌悪感を持ちながら、まぁ、と曖昧に返事をした。
「どこまで行くんすか?」
 少年はくだけた言葉で話す。背丈はサクマより低いものの、スポーツでもやっているのか体つきはたくましい。中央体育館に行くと言っていたので、おそらく運動を目的としているのだろう。サクマは自分のことをどこまで話そうか瞬時に考え、降りるバス停の名前だけを言った。
「へぇー。なんか用事なんすか?」
「知り合いに会いに」
「なるほどー。あ、僕ね、今から家出するんです」
「ふーん……」
「え、反応薄っ」
 少年はもっと驚いて欲しかったのか、がくっとわざとらしくスーツケースからずり落ちた。サクマは興味なさそうにそっぽを向く。こういう、自分はすごいことをしているんだぞという態度を取っている人間がどうも苦手だった。特に、年下の相手は。
「もしかして、したことあるんですか」
「ない。体育館だろ、行き先は」
 所詮、知り合いと落ち合ってそのまま一泊無断で出て行って終わり、だろう。公言するくらいだ、どうせくだらない理由によるものにちがいない。サクマは早くバスが来ないかと、ロータリーの遠くの方を睨んだ。
「ちょっとくらい聞いてあげればいいじゃん、旅は道連れなんて言うくらいだし」
 モモセが隣で言うのを、サクマはうっとうしそうにして手を払った。モモセは少年の顔にずいっと近づいて、「それで、それで?」と相手に聞こえもしないのに質問をする。これは少年をからかっているというよりは、サクマに対して挑発的な行動を取っているようにしか、彼には思えなかった。少年は携帯をいじり、その間にもピコピコと通知音が何回か鳴った。
「兄貴がいるんすけど、引きこもりなんすよねー。ババアは兄貴しか見えてないし、クソ親父はババアと兄貴にイラついてるし」
 さらりと言った少年の言葉に、ふとサクマも彼の方に注目してしまった。少年は携帯から顔を上げると悪戯っぽいような、それでいてどこか無垢であるかのような笑みを浮かべてみせた。
「あんな家ゴメンだって思って」
「夏だけ家出?」
「そんな短期出張みたいな言い方」
 彼はけらけらと腹を抱えて笑う。なにもかもが大げさな身振りに見えたが、彼自身は背丈の小さい男だった。
「学校始まったらやばいかもしれないっすよね。ケータイ代も親持ちだから、それこそバイトでもしなくちゃ」
「意外と現実的なようで……全くそうでもないような」
 という感想をモモセはこぼした。その感想にはサクマも同意見だった。ただ、つい一瞬前までくだらない理由なのだろうと見下していた自分をなぜか恥じた。表面的には非常に軽く浮ついているように見えていても、この笑みの奥にあるものまでサクマは測ることは出来ない。
「それで……あ、バス来た」
 少年はすぐさま携帯をズボンのポケットに突っ込むと、スーツケースを掴んだ。少年の後ろに並んだのはほんの2人だけだった。整理券を取って、サクマは後ろの方に座った。それを当然のように少年はその前に座り、サクマの方を振り返った。
「そんでね、ちょっと試してやりたいんですよ」
「……何を?」
「母親たちがさ、何日で僕がいないって気付くのか」
 少年は深く座りなおした。そしてぎこちない咳を数回した。サクマはふと、そのときわずかに丸まった少年の背中が、自分と重なってしまったような気がして目を伏せた。誰も自分のことなんかすぐに忘れてしまうだろう。自分なんて、ちっぽけで、価値のない人間だから。それはある意味で、「気付いてほしい」という要求の裏返しであって、それを他人の姿で見せつけられるのはサクマにとっても苦痛でしかない。そんな思いを持っていた自分が醜くなるが、その醜ささえも捨てることができなかったのだ。
「大丈夫っすか? そんな真剣な顔しなくってもいいですよ」
 少年はサクマを見て戸惑った素振りをみせた。
「じゃ、次で降りるんで。ありがとうございました、付き合ってもらっちゃって」
 少年はボタンを押し、体半分を通路に向けてスーツケースを押し出した。まだバス停には着いていないが、すぐに降りたいようだ。少年は屈託のない笑顔でサクマに手を振った。だんだんとバスはゆっくりと速度を落とし、間も無く中央体育館前です、とアナウンスを流した。
「……気をつけていけよ」
 最後に交わす言葉にさんざん迷った結果、サクマはそれだけ伝えた。少年は「うん」とはきはきと答えて、バスを降りて行った。
「一期一会ってやつだね」
 モモセは窓に張り付いて、少年が歩いていく様を見届けていた。サクマはリュックから本を取り出して、それを読み始めることにした。少しばかり気分が軽くなっていた。モモセは目を閉じて、彼に寄りかかる仕草をしてみせ、彼に嫌がられたが実害は無かったのでそのまま放っておくことにした。

 そして、彼は目的地に着き、バスを降りた。リュックを背負い直し、一歩踏み出す。自分も歩いていける、そんな確信を彼は持っていた。

続く