1.亡霊の白山羊

 誰かのための人生だなんてまっぴらごめんだ。

 ぱちん、とペンチが錆びたフェンスを断ち切った。目の前に、屈めばくぐれそうな穴がぽっかりと出来上がり、少年はふっと息を吐き出した。右手に持ったペンチはそのままするりと抜け落ちる。こんなことをしている自分は馬鹿なのだろうか、と少年は頭の片隅で思いながらも、もう決めたことなのだから戻る気はなかった。昼過ぎに到着して、のんびりとしてしまったせいでもう夕焼けが自分の目線にまで落っこちてきている。

 八月の夕焼けに、ここ最近続いた猛暑日を少しでも軽くする、涼しげな風。影を伸ばした家々と背の低めな雑居ビルを見下ろすことができるこの場所は、10年ほど近く前まではこの街の中心になっていたデパートだった。そして少年がまさに立っている屋上には小さいながらも「遊園地」が設けられていて、メリーゴーランドや100円玉を入れると動くパンダやライオンのカート、ローラスケートで遊べるコーナーがあった。
 少年も一度だけ、たった一度だけだがここに来て遊んだ記憶がある。もしかしたら何度か訪れているのかもしれないが、自分の記憶に存在しているのはこの一回だけだった。ワゴンで販売していたアイスクリームを買ってもらい、ライオンのカートに乗った、ぼんやりとした思い出。
 あのとき一緒にいたのは父親だった。父親の顔もとっくに忘れたが、たぶん、メガネをかけていたと思う。たくさんの親子連れがいて、父親はそれに困惑しながらはぐれないように手を引いていて、自分がカートに乗ってご満悦気分のときにはにこにこしながら後ろをついてきていた。

 そんなことを思い返しても、なつかしいとか、切ないだとかいう感情は湧いてこない。名残惜しいとも。この屋上も、デパートが撤退してからはほとんどのものが撤去され、残っているのはビニールカバーをかけられたメリーゴーランドだけだ。無人になったこのビル自体、今となっては誰も立ち入ることもなく、人々から忘れられている。時折ホームレスが住みつかないようにと警備員か地元のボランティアパトロールが立っているものの、金曜日の昼から夕方にかけては誰も来ない。
 俺もこのビルみたいに忘れられるんだろうな。誰にも乗ってもらえないライオンみたいに、回ることのないメリーゴーランドみたいに。少年はフェンスの穴をくぐり、ビルのほんのわずかな縁に足を乗せ、かかとの方に体重を預けて脆い金網によりかかった。風がさっきよりも強くなっている。しかし向かい風だ。捲っていたパーカーの袖を下ろし、ポケットに手を入れる。尻ポケットに入れたままの携帯が鳴ったものの、見ようとは思わなかった。どうせくだらない内容だろう、と少年は夕日を眺めながら佇む。足が少しふらついて、ふと下を見下ろした。幅は広い道路ではあるもののわざわざ廃墟ビルの近くなぞを通る人も無く、車と自転車が時折さっさと往来する程度だ。会社の帰宅時間ともかぶり始めてきたのか、車が目立つ。

 そろそろ、か。少年はポケットから手を出した。よりかかっていた上体をかすかに浮かせ、赤い空を見上げた。夜になってしまう前に、飛んだほうがいい。目を閉じれば、一瞬だ。

「ジャンプするの?」
 突然響いた問いかけを聞くと、フェンスに吸い寄せられるように、体が後ろに下がった。自分でもその反射的な動きに少年は驚いていた。背後から聞こえた声は、子供のものだった。屋上に続くドアは誰も入れないように戸口にロープを巻いて塞いでいるはずだ。
「だれ?」
 少年はフェンスに右手の指を絡め、空を仰ぎながら尋ねた。
「モモセ」
 と、背後からまた声。幻聴だろうか。それにしてはやけにクリアだ。それにモモセという名前は初めて聞いた。
「名前はどうでもいい」
「だれって、聞いたじゃない」
「何か用?」
「ジャンプ、するの?」
 声は再び少年に聞いた。しつこいな、と舌打ちをする。いますぐ飛んでしまおうか。ねぇ、とさらに追い討ちをかけられ、少年は苛立った声でそうだよ、と答えた。
「死んじゃうよ?」
「わかってる」
 そのために来たのだから。止めようたって無駄だし、偽善でもなんでも止められたら怒りでそのまま手を離して体を前かがみにしたい衝動に駆られそうだ。しかし、声はくすくすと楽しそうに、笑った。
「ねぇ、一個だけお願いをしたいのだけれど。ね、どうせ死んじゃうのなら、一つくらいいい?」
「嫌だね。他当たって」
 少年はきっぱりと断った。こんなにはっきりとノーと言えるのは気分がいいな、と少年は声の主には見えないよう、口元にだけ笑みを浮かべる。けれども、その笑みは無気力も含んでいた。
「お願い。だって、ここに来てくれたのあなたが初めてなんだもん」
「帰ってママにでもお願いしなよ」
「会えないよ……だって」
 モモセの声は少年のほうへとだんだんと近付いてくる。最初はなんとも思っていなかったが、なんだか背筋に寒気が走る。フェンスを掴んでいた手に力が入り、空を見上げていた視線は下がって、自分の背後をできるだけ見られないかと顔を横に向ける。
「だって、モモセは死んじゃっているもの」

「……は」
 少年は声のした左側を振り返る。視界の隅に、人影がある。長い髪、女の子だ。死んでる? そんな馬鹿みたいな話、あるわけがない。このモモセとかいう子、俺をからかっているんだろうな。あいにくそんな冗談に付き合ってやれるほど俺だってユーモラスな人間じゃない。少年は首を振った。
「ねぇ、こっちおいでよ」
「戻れない」
「嘘。穴通ってこっちくればいいじゃない。それとも、あたしがそっちに行ったほうがいい?」
 フェンスの穴をくぐって来るということだろうか。もしかして、こいつも自分と同じ目的でここに登って来たのではないかという考えが少年の脳裏をよぎる。最後のときくらい一人は嫌だとでも言いたいのか。自分は嫌だ。せっかく、一人になれる場所を見つけられたと思ったのに。
「ねぇ」
「うわっ」
 少女が自分の顔を覗き込んでいた。
 長い黒髪がふわふわと漂い、夕陽に晒された白い肌は透き通ってオレンジの光が微かに写り込んでいる。肩を出した白のワンピースは夏らしいものの、彼女から発せられるその雰囲気は涼しげというよりは冷たい雪のようだった。
 そして、宙に浮いて立っている少女の姿に、少年はぎょっとする。どうやっても足場は自分のつま先が飛び出す狭さでもあるし、彼女は風船のように身軽に夕陽の中を泳いでいる。
「見えてる?」
「……うん」
 少年が頷くと少女はにっこりと笑った。霊感なんて持った覚えはない上に、オカルトな話は信じたことはなかった。呆然としていると、彼女は細い両手を広げて彼と空を阻むように立つ。
「ね、どうせ時間あるでしょう? 今すぐじゃなくたっていいじゃない。ちょっと聞いてくれるだけでいいの」
「無理」
「ねぇってば! じゃないと成仏できないよー」
「はぁ……」
 こんなこと、自分じゃなくたっていいだろう。もっといるだろう、正義感だとか人情に溢れた人間が、こうやって救われない奴らを助ける……いや、助けないといけないと思っている人間が。なんでこんなときには俺なんだ。
 少年は苛々しながら、片足をフェンスの穴に通し、体を正面に向けたまま後ろに下がる。髪の毛がささくれた金網に引っかからないように慎重に首をすくめて穴をくぐる。落としたままのペンチを踏みそうになり、足をずらしてコンクリートを数歩後ろ向きで歩く。改めて見ると開けた穴は小さかった。

 少女はフェンスをくぐるふりだけして、少年の前に手を後ろに組んで立つ。少年の方は居心地が悪そうにパーカーのポケットに両手を突っ込む。ズボンの尻ポケットの携帯がまた鳴る。
「見なくていいの?」
 携帯のことを少女は言う。少年はその言葉を無視して、「なんだよ」と冷たく言い放つ。
「あ、聞いてくれるのね!」
「内容による」
「んーとね、簡単よ。あたしの、生きていた証拠が欲しいの」
 少女は人さし指を立てて、簡単でしょう、と軽い口調だ。少年はじとりと少女を見つめてから首を横に振った。
「却下」
「えー! なんで!」
「俺に何の得があるんだよ」
「ないけど……でも、君くらいしか頼める人がいないの」
「そういう言葉、やめてくんない?」
 少年は明らかに嫌気が差した、という表情で少女を睨む。しかし少女も腰に手を当てて強情な姿勢を取った。
「しょうがないでしょ! あたしだってもっと、優しくて明るい人に頼みたいけれど、そんな人がここに来てくれなかったんだから」
「悪かったな。だったら諦めて」
「ねぇ〜〜〜〜〜〜」
「しつこい」
「協力してくれないなら、あんたのこと呪うよ? 取り憑いちゃうよ? いいの?」
「好きにすれば?」
 どうせできないくせに。それにさっきまで飛び降りようとしていた人間にそんな脅し文句を言ったところで効果がないことくらいわからないのだろうか。ここでの思い出が一番しっくりくるだろうし、自分の最後の場所としてはうってつけだと思っていたが、どうやら外れだったみたいだ。

 少年はペンチと、その辺にと置きっ放しだったリュックを拾い上げ、踵を返して扉に向かう。ひび割れた曇り硝子の付いた両開きの取っ手に、自分がぐるぐるに巻きつけていたロープを解こうとリュックからハサミを取り出した。ロープは自分が巻きつけたときと何も変わっていない。宙を浮いていたことも、どこからともなく現れた彼女はどうやら「普通」ではなさそうだ。
「じゃあ、あなたの大事な人を呪っちゃうよ! いいの? あなたのせいよ!」
 思考もまともではないらしい。少年は切ったロープをリュックにしまい、自分が屋上に侵入した形跡を無くし、彼女の話も聞き流していた。
「じゃあ……あたしもあなたのために何かしてあげるから! それでどう? 交換条件ってやつ!」
「幽霊に何ができるっていうんだよ」
 呆れた少年はリュックを背負い直しながら振り返る。少女は彼が振り返ったことが嬉しいのか、ころりと表情を変えて笑う。
「わかんないけど……あ、多分すり抜けることとか出来るから、ほら、えーっと……職員室に忍び込んで、テストの答え見てきてあげようか?」
「今夏休み。誰もいない」
「あぁ……そっか……えっと……」
「すり抜け、出来るの?」
 少年はもう一度少女に聞いた。
 何か頭に引っかかることがあった。少女は得意げになったのか、地面からわずかに浮いたまますーっと滑るように少年を通り過ぎ、扉にぶつかっていく。彼女の体はゆっくりと扉へと溶けていき、そして向こう側の、ひび割れた窓から顔を覗かせて手を上げる。そして再び少年の隣へと戻ると、「どう?」と首を傾げる。
「……本当に、何かしてくれるんだよな?」
「いいよ!」
「簡単に、言わないほうがいいよ。何されるかわかんないのに」
 扉を開けると、今にも扉が外れそうなぎぃという音が不気味に響く。階段を下りていく少年の後に、少女はついていく。
「ね、それってオーケーってことでいいんだよね?」
「どうせついて来るんだろ」
 携帯のライトで薄暗い階段を照らそうとすると、画面に通知が大量に来ていることが目についた。
「さっさと片付けて、さっさと成仏してくれないと、俺が迷惑」
 廃れた各階はゴミが散らばっている。警備員が見回りをしているとは言うが、本格的にはしていないだろう、下のフロアに行けば行くほどまだ新しそうなゴミが散乱している。湿った埃の臭いにしかめ面をしながら少年は早足で出ていく。

 ビルの扉をそっと開けて、誰もいないことを確認すると素早く出る。少女はその後をゆらゆらと、顔の位置が少年の目線に合わせる高さで浮かびながらついて来ている。
「ね、君名前は? そのくらいは聞いてもいいよね? いろいろ不便だもの」
「……サクマ」
「サクマ! サクマサクマサクマ………、うん、覚えた!」
 少女、モモセは何度も呪文を唱えるように彼の名前を連呼した。暗くなっている通りではあるものの、人と何回かはすれ違う。
 しかし、誰もサクマのすぐ隣についているモモセを見る仕草であるとか、浮いている彼女に驚く気配もないのでサクマは自分以外に彼女が見えていないことを実感してきた。自分以外には見えていない人間……本当はあのとき、俺は飛び降りたのかもしれない。そして彼女と同じように死んだのかもしれない。そんなことを冗談交じりに思いながら、どうしてだろうか、足は自然と自宅へと向かっていた。

続く